新聞
私の生活では、新聞購読は欠かせない。新聞を読まない人が増えたそうだが、新聞というメディアを土台に思考する習慣の世代としては、え?新聞無しで暮らせているの?となる。その人たちもSNSで配信される新聞を読んでいるから「読んでますよ」となるのかもしれないが、私が言う新聞購読とは少し意味合い、いや「肌合い」が違うかもしれない。
新聞紙を大きく広げて目を通すことが、私が言う新聞購読で、SNSに記事ごとに流れて来るニュースとは違うと思う。
本日のある紙の一面(表紙)は、トップは「日銀が、黒田総裁が就任初期におこなった金融政策の議事録を全て公開した」と解説を含めた記事。左上にモスクワ市街地のドローンに襲撃され破壊されたビルの写真(8面に記事あり)。その下に初の国産ワクチン承認へ(社会面に関連記事あり)。その記事に囲まれるように、中学生の英語「話す」正答12%とある。これも社会面に関連記事。コラム(新聞を代表するコメント?)は深刻な温暖化に触れている。さらに写真付きのNewslineは①自動車輸出、中国首位に ②なでしこ全勝 ③京王線での刺傷事件の判決が懲役23年に。諸々の現在の代表的事象が1ページほぼひと目で受け取れるのが、新聞の良さか。それが国際欄、経済欄、社会欄、時に医療欄、等などの特集ページを連ねて24㌻から30㌻で編集されて、毎朝発行されるのだ。記者、カメラマン、編集、校閲、渉外部などのプロの連携作業を月々わずか数千円で受け取れる。それが「新聞購読世代」にとって何事にも代えがたい。
でも私は若い世代に「新聞を読みましょうよ」と奨めたいわけではない。文化的習慣は年代ごとに変わることも、それぞれが「いま」を感じ取る方法を持っていることを知っている。私は、私と、新聞が世界とつながる最上で必須の世代の人たちにこれが自由に手にできる日がいつまでも続くことを祈っているだけだ。もし私に無限の財力があったら、日本中の老人施設に新聞(と管理費)を寄附したいと思う。お金持ちが入居する施設は各自が好きにするだろうが、少なくとも私が近年訪れた両親や義母が入居していた老人施設のロビーに新聞は置いてなかった。SNSが生活に参加し始めた私にとってさえ、一日のある時間を紙の新聞で「心躍り」「心和み」の時間をもらっているのだ。新聞がメディアの主軸だった世代にはとても心寂しいことじゃないかな、と同情的に感じられるのだ。
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