中学生

街に出てもぼんやり過ごせない質というのは、良いのか悪いのか。答えはそれぞれだと思うものの、私のことなのだが、少々疲れるタイプではある。

連休に挟まれた平日の午後、眼と頭休めのために新宿へ。程よく晴れて風もない5月の空の下を20分ほど歩いて、西武新宿線に乗った。それで2分間で終着駅、そこから大地下道を歩いて歌舞伎町やら西口方面へと出向くのがお気に入りの気休めコースなのである。その日もそんなつもりでバッグには文庫本、スマホには今日中に読みたい新聞記事の写メ。2分間の乗車時間でも、注文した紅茶が出てくる間でも、読むものは必須なのだ。

そんな休暇気分満タンでホームに滑り込んで来た電車に乗り込んだ。連休中ということもあってか席はがらがらだったので、どこに座ろうか、と余裕で見渡す。そこで入ったドア近くの横に長いシートをふっと見下ろすと、ゴミが散乱している。ゴミは駄菓子屋で売っていそうなチューブ入りのおやつの食べかす、と一瞬で思った。「ったく、あの中学生らだな」。5人くらいがドアから降りて行くところだった。そのゴミシートの前を通り過ぎようとした時、ゴミの間に「革製らしいストラップに付いた鍵」があることに気づいた。親切なおばさんは「あ、ほら鍵」とドアに向かって言ったが、彼らは既に全員がホームに降りていた。しょうがない。私はその鍵を手にしてドアに走り、「鍵忘れてない?」と彼らに声を掛けたが、振り向かない。今思えばシュートすればよかったのだが、そんな判断力も運動能力も無い。しかたなく追いかけるはめになった。

「ねえ、この鍵、落として無い?」と5人の塊の後列にいる子らに言うと、3人ほどが「知らない」と首を振る。すると前列にいた1人が「あ」と言ってから、「僕の。すみませんでした」と言って受け取って、それで終わり。振り向くと乗ろうとしていた電車のドアは閉まり、私一人を残してゆっくりとホームから滑り出していく。

しかし、声をかけられた時に中学生くらいの集団は、自分に関係が無いとわかるとあんな風に無反応なんだなあ、としみじみ思った。あれがおばさんの集団なら反応は真逆だ。ひとりが「あらま、鍵だわ。ねえどなたか落としてない?」「私じゃないけど、〇さん達は?」。誰か1人の鍵とわかれば、全員が「まーま、ご親切に」「ありがとうございました」「あらら、電車、出ちゃいましたねえ」。煩いくらいに賑やか。中学生は冷淡ということでもない、平静というのでもない。それが中学生くらいの年代で、あれがナチュラルなことなのだろう。と思っていたところに、次の電車が着いた。

しかし、シートに座ってさてスマホの新聞記事を、と思い写メを起ち上げようとしたが集中できない。何かが引っ掛かっているのだ。「ゴミだ」と思った。大した量ではないが連中が残したあの明らかに食べ散らかしたゴミ。そこで私は窓外の新宿の街を見ながら夢想してみた。あのゴミも一緒に持ち出して、鍵を手渡したあと、「君ら、このゴミも受け取れーー」と言って空中高くお菓子の袋や包み紙を放り投げる。そのゴミが彼らの頭上に降りかかる場面はスローモーション…。いやいや、と内心でひとり笑って、それは漫画の世界だ、と思う。

電車の中でゴミを散らかしてそれを何とも思わない彼らも、やがて確実に社会の担い手へと育っていく。彼らを育てている世代は、私達の世代の次の世代。だからこそ、世代を超えた連携を時にゆるく、時にしっかり続けないといけない。「連携」は、共に未来を見て横に並んでの語り合い・分かち合いだと思うが、それが至るところで展開するよう祈りたい。

あの5人の中学生もいつか、「おい、誰の鍵?」「あ、○○の?良かったな」「ありがとうございます(全員)」などという豊かな反応ができるようになってほしい、と期待したいのだが、どうだろうか。

A.Hashimoto's blog

母の心、ふんわりんりん…

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