手塚マンガ『どろろ』

『ブラックジャック』初め手塚治虫の遺した作品群は、医学(生命)について学んだ人らしい示唆が満載。それは誰もが認めるところだろうと思う。ブラックジャックのピノコは臓器移植の可能性そのものだし、『どろろ』の二人の主人公の1人・百鬼丸も医師の養父の手で眼も腕も脚も全身の足りない部分を補整されて育つ。

ずっと以前に『どろろ』を読んだときの、百鬼丸が何番目かの妖怪を始末した途端に眼が蘇るシーンが脳裏に残っていて、私は「あの身体再生の物語をいつかまとめて読みたいものだ」と思っていた。そうこうしているうちに2024年となって、私はふと大手町にある書店の手塚治虫コーナーに立ち寄って、Tezuka Osamu Treasure Box・どろろに出会ったのだった。これは!あの『どろろ』ではないか。そう思って私は立ち尽くしたが、立ち尽くした理由のひとつはもちろん感激したからだが、もうひとつは値段の高さ。そして一端、帰った。2度目もやっぱり、帰った。そして3度目もまだ値段の高さで逡巡しつつ、重そう(4冊、ハードケース入り)だからなどと考えてカートを引いて書店に入っていった。

しかしその3度目は「無い…」。他の題名のトレジャーボックスがおいてある。大急ぎでカウンターにいき、「手塚治虫のトレジャーボックス『どろろ』がありましたけど、売れちゃいました?』と尋ねると、資料をあれこれ探って「ありますよ。2階のカウンターに行ってこれを出してください。いま連絡しましたので、準備してお待ちしております」とメモを渡してくれた。つまり買うことはこうして決まったのだった。

それから全4巻を、年末・年始のいつもとは違う時間の流れの中でゆっくりと通読できた。それでわかったのだが、やっぱり巨匠手塚の作品、単純に’臓器移植やら再生医学をベースに命に向き合って’、なんぞというストーリーではなかった。もちろん作画の素晴らしい安定性も、ストーリーの自由な展開も、随所に散りばめられているウイットやユーモアも、凄い。手塚氏作品が歴史に残る所以である。

百鬼丸もどろろも常に生きるために戦いが強いられて、そして無数の人に出会うが「誰のためにもこのほうが良いのに」という意図や前提は先ず‘ほぼ理解されない’。説得は効かず、無理難題が降りかかる。

そうか、と思う。手塚治虫の漫画は(個人的な感想だが)ストーリーが終結しないことが多い。主人公が「そうしてまた旅へ」。思えば小説や漫画(多くのノンフィクションだって)の主人公も、生きる過程は意のままにならず、ある時は大団円かと思える節目もあるが、やっぱり明日というドアを開けて「また旅へ」。そしてその旅には、『どろろ』の百鬼丸とどろろのように、なんだか離れない方がよさそうな仲間ができる。その仲間が旅をしたからこそのご褒美なのだな、と思えて、『どろろ』は私の書棚の真ん中に収まった。

A.Hashimoto's blog

母の心、ふんわりんりん…

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