3年間のマナ
マナは神が与える食べ物だとか。信仰から遠い暮らしをしている私は、何か特別な物を頭(こうべ)を垂れていただく、という習慣も概念もない。ただ1つだけ感性の底で得心したことは、涙は天国に住むひとのマナになる、ということ。
あの子が亡くなってから、泣いてばかりいてほとんど外に出てなくて、という若いママに、近くにいるご家族や友人が、泣いてばかりいるとあの子が浮かばれないよ、と言ったとか。いえ、お願い、その涙、止めないで…。
その死を惜しんで流れる涙は、天国に行ったひとのマナ。何歳で亡くなった人でも、天国で目覚めた時はあかちゃんのように、マナしか食べられない。私はそう感じるのだ。3歳まではマナが必要。だから見送った人の涙は、天国ではとてもとてもたいせつなのだ。
子を喪った親の集いを20年近く運営していたのだが、メッセージはずっと「共に泣きましょう」だった。悲しくて顔もあげられないような時でも、不思議と1人では泣けないことがある。見送った直後などは、むしろ心が乾いたようになっていて、「泣きたいのに泣けない」。そんなときは母仲間と集って、問わず語りでぽつりぽつりと思い出をたぐりよせているうちに、堰を切ったように涙があふれて来たりする。集った母達は誰も余計なことは言わず、わかる、わかる、と共に泣くだけだった。
悲しみがいったん鎮まるまで、3年かかる。この3年間のマナ(涙)を食べながら、たいせつな家族は天国でゆっくりと身体を休めてくれるのではないかな、と思う。
だから、泣くことを止めないで、できることならそばで黙って、共に泣いてほしい。
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