うぐいす姫と浦島太郎

物心ついて初めのころにストーリーが残っている物語は『ひみつの花園』かもしれない。開かないと思っていた扉の向こうに、うっそうと荒れた庭があった。そこを花いっぱいに美しく変える時、人の心も柔らかくほどけていく物語だった。『両生人間一号』という不思議な小説も、印象に残っている。父親だか育ての親だかの海洋生物研究者に、両生類と同じ肺(呼吸器)を造られた主人公の少年が辿る運命の出会いや別れの物語に、海で泳いだこともない山里に住む幼い少女が1人、涙したりワクワクしたり。

もちろん日本の昔話もたくさん読んだ。浦島太郎や竹取物語などは、絵本や文字だけの物語本で繰り返して読んだり聴いたりして古典の世界に遊んだものだった。『うぐいす姫』は、不思議で少し怖くて、昔の物語が持つ特有のなぞが残る。物語そのものはわりと単純で、出てくるのは主人公の木こり、美しい少女だけ。木こりが木を切っているところに少女が現れて、「その木をきらないでください」と懇願し、若者はその頼みに応じて切るのを止める。すると少女はお礼にと若者を自身の屋敷に招いて、もてなすのだった。やがてくつろいでいる若者に「あの箪笥を空けないでください」と言い残して出かけてゆく。しかし若者はどうしてもその箪笥が気になり、開けてしまう。すると、上段の引き出しの中には5月ころの田畑がさわやかに広がっている。2段目は稲穂がたわわに実り、3段目は冬の雪景色、そして4段目は春爛漫の梅林が。と、その時、「開けないでくださいと申し上げましたのに!」という悲痛な声がして、とたんに家も少女の姿もかき消えてしまった。うぐいすが一声甲高く鳴いて、お話は終わり。

なぜ、うぐいす姫はわざわざ箪笥を指し示して「開けるな」と言ったのだろう。『鶴の恩返し』でも、女房はなぜ「絶対に覗くな」とだけしか言わなかったのだろう。開けたら、あるいは見たら、あなたと私の関係は終わる、とでも説明しておけば、さすがに気になっても約束は破らなかっただろうに。時々そんな風に思いながら大人になって来た。この間にたくさんの人と出会い、語らい、いろいろな、いろいろな出来事も経験してきた。今も未熟者として、あれこれと迷い戸惑いつつ、わからないことだらけだ。そんな時間の流れの中で、ふと思った。昔話も多くの物語も、事前に答えはないぞ、手探りで進め、と言っているのかもしれない。

理不尽な約束を押し付けられて愕然とするより前に、「お礼をもらいに行ったことがそもそも軽すぎないか」ということかも。浦島太郎は、気づけば親も親戚もとうに人生を終わって、次の、次の世代くらいにやっと帰ってきたことになる。それまで遊び惚けていられるほど、子供たちのいたずらから亀を守ってやったことは重大な救済だっただろうか。いや、もし助けなければ亀は食べられてしまったかもしれないのだから、太郎は命の大恩人ではある。それでも、お礼を言われて「いや、いや、そんな。良いことをした私も嬉しいから、それでおあいこ。乙姫様とやらに宜しく」といって家に帰る、ではだめだったのだろうか。しかしそれは、衣食がそれほど難儀をしなくても手に入る時代に生まれて暮らす立場だから言えることかもしれない。浦島太郎のお話は「生きる・暮らす」ことの手応えが今と全く違う時代に、人から人へ口伝された物語だから、隠喩される意味を一言で断じることはできない。

 それにしても、大人になるまでは「一瞬にして白髪になるような玉手箱を持たせるなんて、酷いなあ」と、乙姫様の仕掛けを理不尽に感じていた記憶がある。そのあと、というよりも様々に経験を重ねたいまは「いや、誰もが居ない世界で一から生きるのは無理だから、せめてもの恩情で本来の歳にしてもらえたのでは?」と思うようになった。

 いろいろな読み方ができるからこそ、語り継がれて生き残ってきた多くのストーリーの数々。過酷ともいえる大自然の中で多様な生物と真摯に向き合い、せめぎ合いながら、食や住を確保していた古(いにしえ)の人々が何を伝えたかったのか、いくつになっても本好き・物語好きの私としては思い返さないではいられない。


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母の心、ふんわりんりん…

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