お茶のお稽古
新型コロナウイルス感染症を避けるために、本当にたくさんのことが「禁忌」とされてしまった。三密を回避するために、飲食も芸術鑑賞も習い事も。私が参加している茶の湯も、お稽古場であるお寺から「当分おいでいただけない」という通達があった。写経も止めていただいてますので、茶道会もお休みください、である。それはもう、確かにそうだとお茶仲間と(電話で)納得の言葉を交わしたものだ。
よく知られていることだが、茶室に入る躙り口という狭い引き戸は、誰であれここに入る者は頭を垂れよ、という仕掛けだそうだ。なるほど、である。しかし茶室では正座しているので、横は狭いが薄暗いこともあるからか、空間としては息苦しくない。窯の湯がひしゃくで茶碗に注がれて、茶筅の音がさらさらと流れて、薬効ある緑の茶が程よい温度で供される、至福の時。しかしいくら幸せでも、ともかくお茶席は狭い。お茶は独客(どっきゃく)という亭主(呼んだ人)1人にお客が1人きり、という茶事以外は、5人も6人ものお客が横に密着して座る。それはどうやら、お茶に招待する側とされる側の人間関係がなんらか試されるような、今とは全く違う意味合いで茶席が用意された時代があったからのようだ。敵か味方か。裏切るか、同盟を結べるか。戦国時代、武家社会の、腹の探り合いが単純化された所作に込められる。出されたお茶に毒が入っているかもしれない。だから、お茶はいわゆる回し飲みをするのだ。あいつの後に飲むのはいやだな、なんて言わせない。お茶の席に欠かせない道具の1つが扇子なのだが、私がもっている扇子の1つも銀が流されている。ある種の毒が湯気に交じると、扇子の銀が変色するのだそうだ。安全を示すために、練った濃茶(どろっとしている)に銀の扇子をかぶせて出した、という場面を何かで読んだことがある。しかし本来、お茶は薬として伝わって来たそうだ。だからお茶は一杯とは言わず、一服と数える。
それにしても、回し飲みは濃茶では3人くらいでするが、薄茶(さらっとして、泡立ててある)でも、「もう一服所望」すると、その茶碗をちょっと湯ですすいでそのまま次の人に点てて、出す。つまり茶室に同席したら否応なくお仲間、逃げも隠れもできない。コロナ禍のいま、昔の毒は別として、回し飲みももう一服所望も、とんでもない。いまの情勢、お茶席だけはNOだろう。
やってない人からしたら「何が楽しいの?」と言われそうな、茶の席。亭主役がお茶を点てるのを、客役はしずかに見守りながら、出されたお菓子をゆっくり味わう。茶の湯では、お菓子は出されたらいただいてしまうのである。四季折々のお菓子をいただいて、季節なりのお点前(点て方にもいくつもの型があって、それを繰り返し稽古して身につけ、よどみなく行う)を見守りながら、春夏秋冬を感じる。
仕事との兼ね合いをはかりながら、毎月できれば3回、お稽古に通っていた。そんな誰にでもあった日常が失われて、いまはもう9月。しかし、そっくり同じように前に戻ろうとするのも違うかもしれない。この困難を皆で乗り越えたら、前よりもシンプルで、でも何らかのプラスαも感じられる日々ならいいが、と思う。
0コメント