いいね!
地下鉄で東京駅について、ホームから改札に向かうためのエスカレーターに乗ろうとした時だった。私よりも少し早くエスカレーターに着いた車いすの男性が、迷うことなくエスカレーターに乗った!少し向こうまで行けばエレベーターがある。しかしその人は、真っすぐにエスカレーターに車いすで乗り入れて、スーツのジャケットの左腕を手すりにがっちり乗せて、車いすを後ろ三分の一くらい浮かせて上段まで到着したのだった。
周囲に、私以外の人影はなかった。私自身は、車いすの男性が上まで着いたのを見計らって同じエレベーターに乗りつつ、内心「お見事」と呟いた。かなり慣れている様子、と思った。エレベーターも使うのだろうが、おそらく人出の様子で、いまはOK、と判断した時だけそうしている、と勝手に想像した。ラッシュ時は、人混みに混じって車いすで移動するだけでも大変だろう。その上、前にも後ろにも人がいたら、ちょっと騒ぎになってしまうかもしれない。「これが一番手っ取り早いが、通常は許されないからしない」ということなのかもしれない。
車いすに乗っている、という状況は障害があることが「わかりやすい」。だから、居合わせたひとは誰もが、それぞれに注意力を持って接することになる。しかし、歩けないこと以外は健常なのだから「自分のペースでさっさと行動したい」、と「強く思う」時もあるだろう。しかし、エレベーターを使う、駅員の介添えを頼む、電車では特別なスペースを空けてもらう等、終始無言というわけにいかない。お願いします、ありがとう、を健常者よりもたくさん言うことになるのではないだろうか。
ありがとう、は美しい言葉ではある。しかし、言いたくても言えないほどこころが疲れてしまうことがある。それが当事者というものだ。明確な説明はできないが、えもいわれぬ不安に押しつぶされて仮面うつ病のようになってしまうこともある。骨髄バンク設立運動を展開していたころ、「ありがとうくらい、いくらでも言えばいいじゃない。言葉はただなんだから。簡単なことでしょ」と言ったひともいた。いや、簡単ではないのだ。
あの車いすの男性、そんな風にたいそうな心持ではないかもしれない。でも、逞しい肩と背中で悠然と車いすを乗りこなして(と、見えた)、さっそうとエスカレーターを利用する姿に、親指を立てて「いいね!」を送りたくなった。
0コメント