人類が消えた世界
突如として人類が世界から消えたら、と想定して開始するのが本書。人類が消えた理由(の想定)には触れないので、あまりややこしいを想像せずに、人間が地球に対してどのような存在か、を考えることができる。
まず、ニューヨークの地下鉄は数時間で水があふれだし、地下街全体がそう日数がかからないうちに水没する。それくらい都市構造は人力で管理されている、という理解から出発することになるのだ。個人の家も、オフィス街のビル群も、ブルックリン橋も、人工の構造物はその瞬間から腐敗が始まり、そう長くはもたない。いっぽう人類なきあと、動物界はどうなっていくだろう。語弊があるかもしれないが、面白かったのは、ペットの代表格である猫と犬の未来予想だった。猫は、本来の小動物を狩って生きる能力は失われていないので、おそらく自由を満喫して生きていくだろう。犬は、既に人間なしには生きられないようになっているため、ほかの自然界で生きて来た動物たちによって滅ぼされてしまう、とか。石や金属でできた数々の文化遺産も、数万年のうちに跡形もなく消え、森に浸食されてしまう。しかし、プラスティックや放射性物質はほぼ永遠に地球環境に甚大な影響を与え続けるであろう。やがて地球を覆った森で、人類に代わる地位につける可能性が大きいのはマントヒヒかもしれない。
『人類が消えた世界』(アラン・ワイズマン 早川書房)が日本で出版されたとき、すぐに買い求めて読んだ。そのころはまだ、プラスティックゴミがあまり社会的関心を呼んでいなかった。しかし本書の中にあった、「太平洋にはゴミが溜まっている海域がある。そこには世界中の人類が廃棄するプラスティックゴミが流れつく。このゴミの海域を普通の速度の船で横切るのに、1週間かかる。行けども行けども、プラスティックゴミの海だ」という描写があった。
おおよそ「いま」の世界は、大半の人々がこれでヨシとしていること。でも明るい表層にも、必ず影がある。その影に潜んでいる問題点、その芽くらいでも、気づいたら声を上げたい。悲しんでいるひと、困っているひとが光の影には必ずいる。でも渦中で苦しんでいるひとは声を上げられない。当事者は「その苦しみ」に耐えるだけで精一杯だからだ。だから、代わって声をあげられる余裕がある立場から、まずは当事者に「痛みを理解している」ことを伝え、同時に、社会に向かって声を発したいと思っている。
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