七五三

七五三は、子が生まれて3年、5年、7年目の行事。江戸時代がちょうど安定したころから祝われてきた。3歳~7歳時に日本で育った人なら、その多くが七五三のお祝いの記憶と記念写真が残っているのではないか。

骨髄バンクの設立を願って、「骨髄バンクの早期実現を進める会」を起ち上げのは1987年のことだった。協力者の皆さんと一緒に「団体」を組織したのは、1人の母親の願い、というだけでは連携の力を示せそうにないと(皆で)判断したからだ。それから丸2年目の1989年11月に、時の総理大臣から「骨髄バンクは必要でしょうね」という言質をいただくことになる。もし骨髄バンクのようなものが日本にもあれば、息子さんの骨髄移植をして命を救えるかもしれません、という息子の主治医の言葉を聞いてから、3年目だった。

怒涛の如くの3年間だった。それからの政府や関係医療、骨髄バンクの稼働へとつながる人の動きについてはこれまで数々の出稿をしてきたし、書ききれていないことはまた別稿で詳述しようと思う。いまは、ゼロから立ち上がって日本中を走り回り国会の予算員会の傍聴席から竹下総理大臣の聞くに至るまでの、「時間としての3年間」の質量をしみじみ考えている。

それからも、つばさの前身になる任意団体を創り、厚労科研費(厚労省が設置している研究助成費)で立ち上げた電話相談の牽引者となり、巨額の寄付をもとにした支援金の代表者に就き、ある団体が創設した電話相談センターで責任者となった。つまり、けっこうな数の団体を創設し、そのまま運営者となった。そして、いつも「組織3年」「まるく修めるまでにプラス2年。計5年」としみじみ思ったものだ。

団体創設の目的は明快だが、運営方法の確立はこれから。だが、さあ、やろう!というメンバーのエネルギーは満ちている。周囲への挨拶、手探りの第一回目の集まり、そして最初の振り返りの検討会。少し時間が過ぎてから、ちょっとだけ反省点が出て来ても、誰もが伸びしろを持っているから反省も建設的に進む。そうやって、夢中で過ぎる3年目くらいには成果がまとまって来る。研究班なら、研究報告ができあがる。つまり、プロジェクト3年なのだ。たいていの研究費が3年間分ということに、なるほどね、と素人ながら感じる。

娘が1年生の時の先生が、「小学校は6年間ですが、低学年3年間と、高学年の3年間、まるで別物なんです。3年は、人の成長のリズムかもしれません」といったことが本当に印象的だった。そういえば中学は3年間で終わり、高校も3年間で終わる。大学はもう成長期ではなく研究生でもあるので、3年+1年=4年。

3年の日々。よい環ができたとしても、息が合わない残念な場合でも、それは必ず締めがあり次へと変化する。なぜなら、社会は流動していくからだ。人のそれぞれの事情も変わる。ひとは成長し、ときに疲労し、充実し、ゆえに必ず変化する。

だから、その出会いをたいせつに。「いま」が宝だ。

A.Hashimoto's blog

母の心、ふんわりんりん…

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