『明治を生きた男装の女医』
女・子どもを診る医者になる、と望み、脇目も振らずに歩き通したひと。感動したというより、「畏れ入りました」と呟いてしまった。今も昔も、この仕事を極めたい、と思える職業に出会えたら幸いかもしれない。そして、それに向かってどこまでも進める意志が持てたら、とても幸運なことかもしれない。
明治期に日本女性で2番目に医師となったひと、高橋瑞(みず)の生涯を読んだ。最初はただ学問がしたい、と渇望する。父親が漢学者で、末娘の瑞に和歌の手ほどきをし「いずれ学問の道に進むとよい」と期待を寄せるが、瑞が10歳のときに他界してしまう。瑞は長兄に養われることになるが、兄は「女に学問は邪魔になる(良い人生を歩めない)」と考える人だった。瑞は手先が器用で針仕事も上達が早く、家事・炊事も完璧。そんなことから、長兄の嫁の手伝いとして重宝がられつつ、姪や甥にも慕われて暮らす時期がある。甥の手習いの付き添いで学問所に通いながら、廊下で読み書き算術を学んでいく。つまり兄嫁に代わって子育てしながら、自分も教育を受けていくという熱心さだった。そして瑞が20歳を過ぎたころ、姪が悪性の風邪にかかる。「これは普通ではない。しっかり医者に診せるべき」と兄に進言する。瑞自身が喘息持ちだったのだが、姪の呼吸の様子はただ事ではないと感じたのだ。観察眼が優れている。「喘息なら吐く息がヒューだが、この子は吸いながらヒューと苦しそうだ」。だが聞き入れられず、姪は命を落とす。その時、瑞は「女の子だから、医者を呼ばなかった」と理解し、兄に抗議も師し、私はやはり学問をしたいと決意して、風呂敷包みひとつで家を出る。
髙橋瑞は、それからまるで這うようにしてじりじりと医師への道を歩むのだが、なんと最初は群馬県の前橋にたどり着き、最初は産婆になっていく。当時の助産術は、まだまだピンからキリ。ピンが優れている方?だとしたら西洋医学の助産、蘭学の助産もあるが、キリは妖術まがいの、出産はいわゆる「穢れ」とされていて母子が命を落とす割合が凄まじく高かった…。
学びたい、医師になる資格を得たい、なによりも「女と子どもを救いたい」。その一念で、なんと37歳でドイツ留学まで果たす。そうして、日本で二人目の女性医師になるのだった。念願通り学び、希望通りの職につき、遠望した目標に生きた。強くて、優しくて、そして精神性が自由なひとだったと思った。
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