言葉遣い

この頃のていねい過ぎるモノの言い方、やっぱり変だ。でもあまり、ヤイノヤイノ言いたくない。個人から見える「社会の風潮」の一面にだけ切りつけても解決しないし、生産性がなさそうだからだ。それでも多少は文章を書き、それなりの人数の前でマイクを持つ機会も多いので、どうしても気になる。そんな風に考えていたところ、関係する団体の職員が、ある軽犯罪者について「・・・の判決を受けられました」と書いたのを目にして、苦笑してしまった。

犯罪者だから丁寧語は使わなくていい、ではない。第三者、公人、集団など、直接の会話の相手や、会話に登場するくらい身近な目上、ではない存在について文章に書く場合は、敬語は要らない(無い方が良い)のだ。首相であろうと、著名なスターであろうと、それは同じ。「・・と、おっしゃられた」などと。くどい。発言した、で良い。せいぜい、発言された、である。丁寧語、敬語の使い方は、新聞報道の表現が基本かもしれない。

このところ、やたらに「・・の方(かた)」と、人物説明の後ろに「方」を加えたがる。「受賞された方」のように。受賞者でよい。カフェで「ご注文のサンドイッチの‘ほう’、お持ちしました」と言われて、ん?もう一品注文したっけ?と思って、内心笑う。いっぽうで、薬局で並んでいる時に、空いたレジから「こちらへどうぞ」と呼びかけるが、これは「こちらへお願いします」が正しい。客に移動させるのだから、店側からの依頼であるべき。レジの後ろに貼ってあるお知らせの「〇〇がお持ち帰りできます」も間違い。最終的に客の行為を一人称で表現している。「お持ち帰りになれます」がすっきり正しい。いっそ、持ち帰りOK、でどうだろう。せいぜい、持ち帰り、可。

結局、自分の立ち位置に自信がもてないため、二重三重に言葉を重ねる傾向になるのかもしれない。日本は、江戸期の幕藩体制の下で「言わぬが花」「沈黙は金」などと、自己主張を禁忌として戒めてきた歴史が長い。言葉を活発に交わすことでお互いを理解し合い、最終的に合意形成する、という習慣がない。しかし近年はSNSが急速に発達して、言葉を発する機会が異様に増えてしまった。それも「即応」が求められる。短く、早く、何かを言う必要がある。答えも、瞬時に期待する。自由に発言しているようにも見えるが、逆である。自分の発言(作文)への評価を、息詰まる状態で意識することになる。その結果が、ていねい過ぎるものの言い方になるのだろう。

文章や言葉は、「そこは危険だ」「私は味方だ」「向こうに美味しい果物がある」などの仲間への伝達から始まり、ついには恋の歌を紙に書いて梅の枝に結ぶようになった。つまり本来は、他者への想いを伝えるために成立してきたのだと思う。でも今は、ひたすら短文、ついには単語だけに近い「一方的な発信」になってしまった。社会は識字率を上げるために、様々な苦心をしてきた。識字率は文化・文明を高度化するのに欠かせないからだ。言葉は豊かな社会活動に欠かせないたいせつなツール。それが緊張感を生み出しているとしたらもったいないな、としみじみ思う。

A.Hashimoto's blog

母の心、ふんわりんりん…

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