大磨き

無理やり休暇と決めて休んでいた間に、ふと「大磨き」を思い立った。これまでも、必要最低限の衛生管理としての掃除や整理整頓くらいはこなしていたが、そのたぐいではなくて、お風呂場のタイルとリビングの床を徹底して磨くことにしたのだ。

子育ても介護もない、仕事はリモートワーク、新型コロナウイルス感染症問題のためにご近所付き合いは遠慮気味。そいうわけで基本的に家には誰も来ない。かつては人がワイワイ訪ねてくるように仕向けていたため、いまもって家の掃除や飾りつけを「誰かに見られること」を意識しているかもしれない。だから、家を磨いても、誰もそれを「床、ぴかぴか!」「お風呂場が気持ちよくなった」とは言ってくれない。訪問者や、いれば家族の、そんな称賛は人生においてとても大事なことだと思う。その視線、感謝や称賛は、人生を豊かにしてくれてきた。それでよい。でもここはひとつ、自分の大磨きの行為そのもののために、時間を使ってみようと思い立った。

床にくもりがあるなあ、と気づいたとき、ふと思い出したことがある。子どものころに近所に貧しい(どの家もそこそこ貧しい時代だったが、中でもひときわ貧しい)老夫婦の家があった。その家は、ひと間だけなのだ。入ったところに土間があり、そこにかまどのがあって台所を兼ねている。その横の床板に囲炉裏があった。居室といえる部分は8畳くらいの広さの畳の間だった。私はこの家の、やさしい働き者のおばあちゃんが大好きだった。生涯ついに定職をもたないまま歳をとった夫に楯突いた様子もなく、3人の男の子を育てあげ、辛いこともあったと思うがいつも微笑んでいた。そのおばあちゃんが、いつも磨いていたのがこの床板だった。だからだと思うが、床は黒光りしていて、幼心に私は美しいと思った。お掃除のあと、おばあちゃんがブリキのバケツでざぶざぶとぞうきんを洗って、きゅっと絞ったあと、ふーっと腰を伸ばす仕草も大好きだった。30年も前にふたりとも亡くなり、この家もとうに無くなって跡形もないが、おばあちゃんがたいせつにしていた小さな庭の赤いダリアとともに、床の光沢が私の脳裏にいまも浮かぶ。

おばあちゃんは、床を磨くことを、誰かに見られるから、と思ってやっていただろうか。もちろん、そういう意識も多少はあったかもしれないが、おそらく私がこれまで感じて来た「見栄え」狙いなどとはまったく違う次元だったかもしれない。生きる。暮らす。命が続く限り淡々と今日を過ごし、明日を迎える。その時間の流れの中で、すべきことをする。

いや、それもまた、おばあちゃんに語って聞かせたらきょとんとされて、そのあと微笑みながら「あら、そう?」と言われそうだ。

A.Hashimoto's blog

母の心、ふんわりんりん…

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