30年間の航跡
一泊二日の出張だった。一日目は京都大学のiPS研究所で顧問をされている中畑先生を訪ね、翌日は京都府福知山市で活躍を続ける友人を訪ねた。中畑先生は、臍帯(へその緒)の中を満たしている血液中に幹細胞を発見したのだが、それは間もなく「さい帯血移植」という治療法となり、いま骨髄バンクからの移植数より年間移植数が多い。福知山市に住む友人は、娘さんのために骨髄バンクの必要性を日本で最初に訴えて行動開始した人だった。
二日間で、私は30年以上の「個人史といま」を聴くことになった。先生は研究者として、友人は母として「ひとの幹細胞が、ひとの病気(血液がん)を治せるかもしれない」ことに期待し、それが医療という社会的システムのひとつになっていく過程に関わった。ひとり1人の人生の貴重さ。それはあまりに力強く、「あっという間」ではない、という事実を改めて教えられることになった。
京都から福知山市は特急「天橋立行き」で1時間40分だった。途中のおよそ20分間くらいは、山と渓谷が続く。まだ紅葉しない深い緑に目を休めながら、日本海側へと進んで行くことを実感。福知山駅に着いて見上げた空は、さっき京都駅で見上げたのとは違う空気感だった。車で迎えに来てくれた友人が、「少し早いけど、お昼にしましょう」と、そのまま先ず「出石蕎麦」へ。食べながら彼女が「次は、ただの遊びで来て。‘竹田城(天空の城)’に案内するね。それで、そこのもっと美味しいお蕎麦を食べましょう」と言ってくれたが、出石蕎麦も充分に美味しかった。友人宅の滞在は4時間。1分の休みもなく互角にしゃべり合い、「話し足りない。あと3年くらい喋れる」と笑い合いながらの取材だった。帰りには、家で採れたのよ、と新鮮でおいしそうなミョウガを一袋。自家製のブルーベリージャムをひと瓶。Newsletter用の写真を撮り忘れないようにするのが精いっぱいだった。
それにしても、行きの新幹線は、メールチェックと紅茶を飲んでいるうちに到着。お話をうかがう会議室までが、駅からタクシーでほぼ20分だから、移動時間の合計だけでは2時間程度ということになる。空の移動(飛行機)と合わせてこの移動の速さと、IT技術の発達があったことで、結果的にはiPS細胞も発見されていく。しかし一方でその医療技術も、着目し開発されてスタンダードな医療として市民の暮らしに届くころには、必要を訴えた人は「その科学の恩恵の対象者ではない」。友人の娘さんが亡くなったのが1991年2月7日、私の息子が逝去したのが1992年2月7日だった。
研究者と一市民である母親という双方向からの話を聴いて、この30年間の文明の凄まじい変化にしみじみ慨嘆したのだった。
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