想いを馳せれば
2020年から2021年へと変わって、今日は朔日(ついたち)。私が住まう東京は、冷え込んではいたが抜けるような青空で新年が明けた。いわゆる穏やかなお正月を迎えたことになる。でも日本各地はどうだろうか。12月下旬に所用で日帰りした新潟市は、降雪地帯のイメージがあるが市内に積雪はなくて、小雨が降ったり、ときに晴れ間がのぞいたりしていた。でも途中の長岡あたりはすっかり雪景色で、「トンネルを抜けるとそこは雪国だった」。
年末に発送したNewsletterひろばの宛先は、北海道から沖縄まで。その三分の二くらいが病院の住所なのだが、気候や環境はさまざまだと想像できる。そして、個々の方々も医療全体も、地方であれ都市部であれ、さまざまに緊張を強いられていることも、想う。
私は「あれから」、年末年始や五月の連休やお盆休みなどの、ほとんどの人にとって長い休みになると、自分がどこでなにをしていても、病棟の光景を思い浮かべる。長男の知が15歳の暮、国立がんセンター(現・国立がん研究センター中央病院)の小児病棟に入院していたのだった。元気ではあったが、血小板値が3,000前後。年末なので特別に遅くまで病棟にいてよいとされて、いつもよりにぎやかに過ごしていたが、それでも母の内心はきつく緊張したままだった。おそらく厳しい横顔だったのだと思う。そんな私に、先生達も看護師さん達も「注意してますから」と告げてくれたものだった。そして明けて、1日の面会時間の病棟に着いて、本人の元気そうな顔を見てほっとしているところに血小板輸血のバッグが届いた。都内のどこかの献血センターか献血車に、見知らぬ人が献血に寄ってくれたのだ。供血したあと、お正月の街をその人がさりげなく帰っていく姿を思いうかべて、内心で頭をたれたものだった。
今こうしているときも、年末から病棟で過ごしている患者さんとそのご家族が日本中にいて、中には非血縁ドナーの検索を待っているかもしれない。あるいは、何らかの治療の経過中かな、不安だろうな、と思う。でもきっとそんな人たちにも、あの日、私の息子を囲んでくれていた医療の人々や、献血に立ち寄ってくれた供血者のような「支え手」がいるはずだ。あれからの30年間で出会った医療と創薬で働く人々を想い浮かべれば、尚そう思えてくる。何よりいまは、あの頃は遠い望みでしかなかった骨髄バンクとさい帯血バンクが大きく両腕を広げている。私たちはそんな2021年1月1日を迎えているのだ。
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