優しい言葉
怖い目と表情の奉行(という設定らしい人物が)「テロを許すな」とこちらを睨んでいる。都バスに設えられた都の広報なのだが、いわゆる劇画タッチの絵である。手にした采配のための黒い扇のようなものをこちらに向けている。怖い顔と厳しい言葉。
何か企んでいるなら許さないぞ、見つけ出してやる、と言いたいのだろうか。この居丈高の態度や言葉が、テロを含む暴力行為の抑止に役に立つのか。見ないわけにいかない所に掛けてあるので見てしまうが、ざわっと落ち着かない気分になる。
新型コロナウイルスが予想をはるかに超えて、蔓延状態になってしまった。人類全体に緊張感をもたらし、営みの在り方の全てを振り返る必要を迫っている。人と人とが相互に接触せずにこれまで以上の仕事や研究の成果を上げよ、という無理難題を要求されている。寄り添い、温度感を伝え合うことで争いを避ける知恵を積んできたのが人類ではないか。争わずに皆が食べられるように食物を豊富に手に入れるために農耕が生まれ、同時に言葉による伝達法を生み出して来た。向こうに危険な敵がいる、という剣呑な伝達ももちろん必須だったわけだが、愛も悲しみも言葉で伝え合えるようになったのが人間である。「理解している」「大丈夫」「私の傍にいて」「元気でいてね」「また会いましょう」。
私はオリンピック開催に賛成でも反対でもない。オリンピックに関係する家族もいないし、私自身も接点が何もないので、意見も持ち合わせないのだが、心配はしている。何が?おそらくあの規模のイベントを日本で行ったときの医療への負担が重過ぎるだろう、と感じるからだ。その視点で政治家やオリンピック開催関係者の発言を考えるとき、私の心にはいくつかの言葉がきつい。「コロナに打ち勝つ」。感染症対策は戦いなのか…?連携や忍耐や希望への志向ではないのか。本当にオリンピック開催の効果を次代へ贈ろうとしているのであれば、覚悟あるアイディアと心に響く言葉が生まれるはずだ。感染症と会い向かっている命の現場にも届くような、力強くて優しい言葉が。
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