『密やかな結晶』
その島では、以前から少しずつ何かが「消滅」して行く。ある日幼い主人公は、母親から「あなたが生まれるずっと昔、この島にもいろいろな物があふれていたのよ」と聞かされる。きれいな宝石、やわらかい音楽、つやつやしたリボン、ほかの島へと行き来するためのフェリー。その消滅はゆっくりと、音もなく訪れる。何かが、それはバラだったり、鳥だったり、季節だったりが、ある日突然に島の暮らしの中から消え去る。ほぼ同時に人々は「消えたものの記憶」を消失する。だから「誰も」、なぜだ、何者が奪ったのだ、とは思わない。人々にとって何かが失われることを恐れる必要はないのだった。
ところが島民の中には、消失は不自然なことだと感じることができる人たちが、ある割合でいた。その人たちは、消えたものを忘れない。失われたことを認知できるのだ。その彼らの中には、密かに失われた物を手元に残し、記録しようとする人がいた。
しかし島の秘密警察は彼らを見逃さない。秘密警察の「記憶狩り」は、消滅を受け入れておとなしく暮らす人々にも恐れられるほどに過酷だった。主人公の母親もまた、記憶狩りで秘密警察に連行された1人だった。母親は娘のために失われたものを残し、隠しておいて、「ほら、これに触ってみて」と、音や感触を蘇らせようとしていたのだ。
徐々に進む理不尽に無抵抗でいると、それは自分の心まで失うことになる。そう思わせてくれた本書は、日本人作品で初めてブッカー国際賞候補になった。25年も前の発行だが、いまなお色褪せない。むしろ、コロナ禍や、ミャンマーのクーデターのような力での制圧に憂鬱になる昨今だからこそ輝く言葉が、たくさん散りばめられている、と感じ入った。
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