生まれて育ったところ
昨年の秋に実家だった古屋が撤去されて、あの家で100年を超えた歴史が幕を下ろした。こうして時代と人とが静かに入れ替わっていく。撤去直前に弟が撮ってきた、何もなくなった母屋と離れと庭の隅々の写真をみながら、感慨にしばし耽った。
池で泳いでいた鯉は、向かいの家のおじいさんが引き取ってくれたという。暮らしの中で積み重なった雑貨(と言っていいのかな)の廃棄は、近所で退職後にシルバー人材として働いている男性が引き受けたそうだ。彼は次兄と同じ年で、坊主頭のいつも穏やかな少年だった。成人してからは、跡取り息子として両親や近所の年寄りの支えとして働く、寡黙な青年だった。そしてそのまま彼は、あの集落の変遷を丸ごと引き受けて、おそらく私の実家以外の「始末」にも参加しているのだと思う。寡黙なまま。
私の育った町は、住所としては町だが実際は今でも緑深い村で、経済活動の基軸は車で20分くらいの佐野市や足利市にある。それでも私が子供のころは、小学校にも中学校にも生徒が溢れていた。家があればそこにはたいていは成長期の子供がいて、朝になればランドセルや肩掛けのズックカバンの子らが家から飛び出して来た。その子らはやがて学びや就職のために日本中へと拡散していった。子らが青年期になると、伴侶を供って頑張って買った中古車で顔を輝かして帰省して、親たちを喜ばせるようになる。彼らに子が生まれると、家々は「実家」「里」となって、都会っ子たちに季節感をたっぷりと提供する場となったのだった。実家の片づけをしてくれた彼もまた、弟や妹の一家のための「里」であり、気まぐれに訪れて勝手に都会の空気を振りまいてご機嫌な私たちに、故郷の空気をそっとお返しする忍耐強い故郷そのものだった。
その実家の父母がこの世を去り、家は文字通り古屋となり、今はもう無い。そして、兄たちも相次いで亡くなっていて、私にとって肉親という存在は弟のみとなった。
この頃ふと、私個人のことで「これは嬉しいなあ」という出来事があったとき、それを告げる相手がいない、と気づくことがある。さりげなさ過ぎて友人・知人にとっては面白くもなんとも無いことを話しても、それに充分に反応できる関係。肉親というのはそういう存在なんだな、と実家の存在が根こそぎ無くなったいま、しみじみ思う。
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