文楽+落語

久々に能楽堂の門を入りながら、「ああ、やっぱり良いもんだなあ」と先ず感激した。音楽ホール、映画館、博物館、寺社、教会、数寄屋造りの茶席。音楽を聴く、映画を観る、芸術品を鑑賞する、祈る、一服の茶を介して一期一会の時間を共有する。たったひとつの目的を真に効果的に演出するために設えられた建造物である。だからだと思うが、足を踏み入れただけで、後頭部あたりにまといついていたゴチャゴチャ感がどこかへ霧散して、ありがたい。

その国立能楽堂で「ぶんらくご」を楽しんだ。文楽と落語がコラボしてみましょう、という面白い発想に飛びついてチケットを購入した。前座時代から贔屓にしていた古今亭志ん輔が、いまや押しも押されもしない真打として大活躍をしているのだが、その志ん輔と義太夫の豊竹藤太夫や人形浄瑠璃の吉田玉男との企画である。

おそらく、落語にとっても文楽にとってもこの組み合わせは初めてなのかもしれない。ちょっと照れながらもお互いを意識しつつ、「本業」ではさすがの迫力、という複合効果で、3倍楽しませていただいた。

文楽は人形浄瑠璃(人形と人形遣い)と義太夫(語りと三味線)とで構成される、総合芸術と言ってもいいのかもしれない。一方の落語はたった1人で、江戸前落語であれば膝前に何も置かない。文字通りの身一つで、小道具は手ぬぐいとセンスだけ。その違いを超えて、見事にコラボレーションしていた。舞台上で義太夫の豊竹藤太夫師が、このコラボを振り返って、一言「義太夫も落語も、ここで声を出さないと成立しない」と腹部をボン、と叩いて見せた。「志ん輔さんの声は、見事に腹から出ている」。そういえば志ん輔は前座のころから人一倍大声で、そして小唄も端唄も(この時は義太夫の真似もしたが、それも)かなり上手い。もちろん藤太夫のその声も、能楽堂に朗々と響く。人形師も、吉田玉男(人形の顔と右手)と黒づくめの人形師3人(左手、足、足音)の動きが静かでありながら、同時に素晴らしく力強い。鍛えられた体幹と足腰にほれぼれさせられた。

中入りの時間に、少し寒いが能楽堂の中庭に出てみた。苔がふかふかと夜目にも柔らかい。ここまで育った期間はどのくらいだろうか。それにしても良く手入れされている。能楽堂の中心には、自然の中で時間をかけて育った檜が、文字通り檜舞台となっている。その檜舞台で、能楽師や狂言師、人形浄瑠璃の足が、どんっ、どんっ、と足音を響かせる。時の贈り物である。

急がなければならない事もたくさんあるが、積み重ねなければ答えが出ないことも多い。いま向き合っていることはどちらだろうか。それが見極められると、良い結果に向かいやすいのかもしれない。だから、落ち着こう、だろうか。せっかちを自認している私にとって、能楽堂での芸術鑑賞はありがたい時間と空間だった。

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母の心、ふんわりんりん…

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