桜、さくら
今年もまた、年間のおおよそのスケジュールを立てる時期が来ている。新型コロナウイルス感染症が拡大したり、収束したり、また拡大傾向となったり。敵はウイルスである。過去の大流行の歴史を振り返れば、それが月単位の時間経過で収束した事実は無い。ただともかく、あらゆるデータを手早く情報交換できるIT技術がかつてなく発達している。そこに期待すれば(専門家の見識をもとに、私利私欲や政治的ご都合ではない判断がされることに期待すれば)、過去にないより良い収束の仕方になるかもしれない。世界的な収束を数年で完遂し、30年後くらいに振り返った時に「あの時、コロナ禍に学んで新しい社会へと一歩進んだね」と記録される…、などと素人なりに夢見つつ、つばさのセミナー・フォーラムの企画を検討している内に、3月も下旬となっていた。
散歩の道々の草木に、冬から春へと進む季節を感じさせてもらっていた。梅の芽が膨らみ、陽だまりのチューリップやムスカリが咲き始め、こぶしが真っ白に賑やかな小鳥の群れのように満開になって、そして、ソメイヨシノが咲いた。青空と温暖な空気に恵まれた日に、満開になった桜の大木を見上げて、私はしばし呆然となった。新型コロナウイルスへの対応で世界中が右往左往せざるを得ない状況が、ついに2年目へと突入している。多くの人に悲しいことも辛いことも悔しいこともあったと思われる。疲労困憊が続く人も家族も、組織体もあることを知っている。それでも、桜は青空を背景に小花を無数に枝に広げて、泰然自若としてさやさやと揺れている。思えば311の大災害から半月後に、巨大な悲しみを目撃しながらもやがて桜は咲いたのだった。
もう30年も前になるが、たいせつな子を喪ったお母さんが「桜の満開の中であの子が逝ってしまったので、私は桜を愛でることはできない」と語ってくれた。あのお母さんが、いつの間にか「桜も良いものね」と言うようになったと私は思わない。また若くして血液がんとなって、1年にわたって強烈な化学療法を繰り返して完治した友人が、病室で孤絶感にさいなまれていた時に「桜なんて、この世から消えてしまえ」と思った、と話してくれた。桜が美しいことは、事実だ。しかし、事実はひとつだが、真実はひとそれぞれ。季節の移ろいの中で、いろいろな深い想いを抱き留めながら、今年もまたより良い情報交換の場を用意していきたいと、心のエッジを立て直している。
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