リハビリの効用
お隣のおばちゃんはいつも笑っている。声量が豊かで大きいので、路地の向こうの方で誰かと立ち話をしていると、おしゃべりのテーマが何なのかが直ぐにわかる。ある日の午後は、「1人分のご飯を作るのが面倒なので、お弁当買ってきちゃった」。話し相手の返事の内容は聞こえなかったが、一分後に賑やかな笑い声でおしゃべりは完了した。
そんな明るくて元気いっぱい笑顔いっぱいのおばちゃんは、大好きな編み物をしながら最愛の猫と80代の日々をゆったり過ごしているのだが、若いころは店舗経営者の夫を支える妻であり、二人の息子を育てる母だった。そして、そんな暮らしの中で子宮がん、腸のがんを乗り越えている。私が少しはがん治療経験者の話を理解できることが伝わっているので、時折は、手足の先がしびれて憂鬱なことや、味覚障害が残っていること等を話してくれるが、そんな時でも小声ではないので、周囲の隣人たちにも情報は伝わっているだろうと思う。
その病歴と関係があると思うのだが、糖尿病や高血圧症を抱えている。おばちゃんの外出は「冷蔵庫が空っぽ」だから買い物か、「いつもの薬をもらいに病院」のおよそどちらか。私はもっと散歩した方が良いと思うが、おばちゃんの年代の女性にとって、「1人で散歩を楽しむ」というような具体的な目的が無い行動は考え出せないようだ。だから、「お友達から、お茶を飲みに来るように電話があったの~」などと嬉しそうに、丸い体を揺すりながら出かけるのを見送る時には、「そのお友達、もっと頻繁に呼んでよね」「でもできればお茶菓子に大福は避けて」、などと余計なことを思ってしまうのである。
ある朝「2週間、入院してくるね」と、おばちゃんが我が家の玄関前に居た。脇にやや大きなバッグを抱えている。糖尿病のコントロールと、がんの様子を定期健診するためだそうだ。私は庭木の水やりは心配しないでね、と約束して見送った。背中を見ながら、たしかに肥満状態が素人目にも深刻だな、と感じつつ。
それから2週間後、退院して帰ってきたおばちゃんは1人ではなかった。私の顔を見たとたんにおばちゃんは「いやになっちゃった!」と、とても困った表情だった。「タクシーから降りたら、家に帰る道(路地への入り口)がわからなくなっちゃったのよ」「それで、ああ、どうしよう。私は完全にボケちゃった、と思っていたところで、先生に会ったの」と、隣に立っていた(おばちゃんより高齢に見える)女性を示す。その女性はちょっと私に顔を向けて微笑んだ。どうやらその女性が、以前おばちゃんが言っていた「編み物の師」なのだと理解した。おそらく何回も隣家を訪れていて、道順を熟知していたのだと思う。タクシーから降りて呆然としているおばちゃんと、通りかかったその先生が出会えたことは本当に良かった。そのあと、「あーあ、いやんなっちゃう」と大声で嘆きながらおばちゃんは玄関を開けたのだが、そのとたんに「ありー(愛猫)‼」とこれもまた近所中に帰還がわかる歓声が響いて、ちょっと安心する。
道がわからなくなったのは、おそらく「入院」の2週間の過ごし方のせいだと思う。たった2週間だが、80代の年代にとっての14日間、その隔離生活の影響は大きいはず。14日間は病院の安全な空間の中で、文字通り療養していた。言ってみれば、戸外を歩く、遠くを見る、周囲に無関係の人がたくさんいる中で自分の進む方向を決める、等のある意味で緊張感が必要な社会生活はしていなかった。入院時はタクシーで1人で行って、自分で手続きして、退院時の手続きも自分で済ませた。タクシーに乗ってからも道順もしっかり伝え、運賃も間違いなく払って降りた。誰も、本人も「帰り道がわからなくなる」心配はしなかった。
血液がんは20年ほど前から、治療の早い時点からリハビリするようになっている。ほかの整形外科などでは、もっともっと早くからリハビリは非常に大切なこととして、社会的に認識されてきた。体を動かすこと、不具合のあるところに理学療法士さんと一緒に向き合うこと。脳は、病気になるまでの人生の途上、乳児でハイハイから歩行へ、幼児で友達との駆けっこ、それから走るや跳ぶなどの「記憶」を蓄えているので、治療が終われば「元に戻る」という前提にある。でも心身は、がん宣告の衝撃から始まり、社会生活から切り離された入院生活の間中、抗がん剤や手術で長期にとんでもない負荷に晒されて来て、脳が「その時」留まっている状態とは違っている。退院して帰宅する道々、信号が渡り切れずにとても焦った、と言った20代の友人がいるのだが、その友人の脳はまさか脚がそんなに衰えているという認識に至っていない。ある病院のがんリハビリの理学療法士さんは、「退院が近づくと、病院の庭や周囲を一緒に歩いて外に慣れるようにしていきます」とお話された。がんの治療では医師や看護師がいて、同時にいまは理学療法士さんが、治療を受ける身体に向き合ってくれている。
お隣のおばちゃんには、帰宅してから一週間ほどして路地でばったり会った。ちょっとスリムになって、「とっても調子がいいの!」と笑顔にも張りがあってとても元気だった。入院しての専門家による糖尿病のコントロールに合わせて、退院してからの動きがリハビリ効果になったのかもしれない。お水をあげていたおばちゃん家の椿にも花が咲いて、嬉しくなった。
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