『金の鍵』
『かるいお姫さま』と同じ、ジョージ・マクドナルド作。挿絵も同じ、モーリス・センダックが描いている。深い森の傍らにある一軒の家で、1人の少年が大伯母のお話に耳を傾けているところから、物語は始まる。
大伯母さんは「もし、虹のはしっこにたどりつくことができたら、金の鍵がみつかるんだよ」と話してくれる。少年は当然それに対して「それを見つけたらどうなるのか」とたずねる。それは何の鍵なのか、何を開ける鍵か?と。しかし大伯母さんはいつも「それは誰にもわからない」とお返事するのだった。そして「何の鍵なのか、それは見つけた人が自分で見つける」のだ、と。多くのおとぎ話がそうであるように、幼い主人公の問いには、人生に歩を踏み出す予感に対する畏れや期待感が込められている。そして、全ての物語に込められているのは「人生の手応えや意味は、体験することでしか得ることはできない」という、生きることへのエールなのかもしれない。
ある夕暮れには、少年は一生懸命に考えながら「金でできているなら、売ったら、たくさんお金がもらえる?」と言ってみる。大伯母さんのお返事は「売るんだったら、見つけないほうがましさ」と、これもまた幼いからこその率直なアイディアを、あっさり脇へやってしまう。ここまでが最初のページで、やがて少年は森から導かれるように鍵を探す旅に出ていくのだった。
イギリスのビクトリア朝時代に書かれた物語が、150年の時を超えて、今を生きる私に深い癒しの風を送ってくれた。センダックの挿絵はモノクロの線だけで描かれているのに、少年の前に立ち昇る虹からは七色の光が見える気がする。
それにしても、ある年月を生きて来ると過ぎた年月を振り返って、「あれで良かったのか」「もう少し上手くいく立ち位置を見つけられなかったのか」等など、一生懸命に挑んだことを「力み過ぎた」と惜しんだりする…、のは、私だけか?少なくとも私は、時に頑張り過ぎた自分を悔いたりすることがある。そんな積み重なっている心労に、この『金の鍵』の物語はそっと手を添える。「いやいや、懸命にあの一筋の道を歩んだことは間違いではない」、「あの、目前に示された道にまっすぐ歩み出して試練に挑んだことは正しかった。だから貴重な出会いがあって、ここへとたどり着いたのだ」と、たった80ページの小さな本が諭してくれている気がするのだった。
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