「楽できました」
散歩を兼ねた買い物で新宿へ向かう途中、やや広い歩道でのことだった。歩道の中央には点字ブロックがずうっと通っている。数メートル先を、その点字ブロックを頼りに白杖の男性が歩いていた。近くに点字図書館があるからか、視覚障害の人が1人だったり、あるいは介添え者と一緒に歩いている姿を見かけることが多い。ここはそんなエリアなのだ。
私がその白杖の男性にあと2メートルくらいに迫った時、右手の宅配業の店舗からカートが出て来て男性にぶつかりそうになった。幸いカートを押していた店員らしい人が直ぐに気づき、白杖の人もあまりうろたえることもなく済んだ。いっぽう「済まなかった」のは私の心境だった。比較的人通りの多いこの道では、いくらしっかり点字ブロックが備えられていても、スマホを覗いたまま点字ブロックの上で立ち止まっている人や、さっきの店員のような「点字ブロックが何のためにあるのか」を考慮していない人が多いことを知っているからだ。あのカートに重い段ボール箱が満載になっていたら、と私はネガティブな想像をしないわけにいかなかった。
そんなわけで、私はつい歩く速度をゆるめて、またゆっくりと歩き出した白杖の男性を注視することになった。それで気づいたのだが、すぐ先にあるファミリーレストラン前に並んでいる自転車の一台が点字ブロックに迫っている。そこを男性が通ればあきらかに接触してしまうに違いないと思った。そこで私は、白杖を点字ブロックに慎重に当てながら歩く男性が自転車にもう直ぐぶつかりそう、というところで声を掛けた。「失礼ですが、右手に自転車があって危険な様子ですから、少し左に寄って歩いてください。そうです。はい、ここからは安全です」。男性は私の誘導に応じたあと、「ありがとうございます」と穏やかな声で言うとまた点字ブロックを頼って歩き出した。
私はふと気になって、先程のファミリーレストランに入って行った。あの男性はぶつからないで済んだものの、自転車はそのままあるのだから問題が終わったわけではない。立ち働いていた店員さんに「自転車が点字ブロックに迫って並んで置いてある。あれでは視覚障碍者が安全に通れないかもしれない」と言って、外に出て見てもらった。すみません!とその店員さんは直ぐに自転車を動かしにかかった。後日談だが、そのファミリーレストランの外に並ぶ自転車は、店の壁にしっかりと押し付けられていて、道路にはみだしていなかった。
ところで、私がファミリーレストランで店員さんと話したあとで歩いて行くと、交差点を右に曲がったところで男性に追いついた。私は、これもご縁かなと思いお声を掛けることにした。「先ほど自転車のことでお話した者です。行き先はどちらの方でしょう。良かったらご一緒しませんか?」。駅に行くのだとか。「私も駅に行きます。ご一緒しましょう」と告げると、男性は私の右肩に手を置いて、右手の白杖を脇に抱えて歩き出した。それから、最近の新聞報道にあった気になる事件、オリンピック開催の是非、急に熱くなったので体調管理が難しい等などおしゃべりしながら駅までの道を楽しんだ。駅に着いた時、「ここで娘と待ち合わせなんです」とのことだった。
そして改札前で、「お陰様で今日は楽ができました」とお礼を言ってくださった。ああ、そうなんだなあ、と私は思った。視覚障碍者の方々にとって、道を歩くことには緊張感が強いられて、やっぱり「楽とは言えない」行動なのだ。そうだろうなあ、と何度となく内心で頷きながら新宿へと向かう電車に乗り込んだ。私は5年間ほど聴覚障碍者のためのボランティアをしていて、4級だが手話通訳の資格を持っていたことがある。聴覚障碍者にとっては、見えない範囲できていることは認識できない。だから、後ろから突如現れるフルスピードの自転車は怖いだろう、といつも思いながら歩いている。車椅子での街中の移動は、言うに及ばず、である。
それにしても、とその日は夜までどこかほっこりした気分だった。なぜなのかな、と考えて、わかった。肩に触れていた「手」のおかげだ。男性は60代後半くらいで、背は普通くらいだが横にがっちりした体形だった。私の肩に添えられた手はしっかりとして大きくて、温かかった。新型コロナウイルス感染症拡大から、握手も優しく背中を叩くのも禁忌。人に会うのはモニター越しがほとんどとなってしまった。人助けの関係だけじゃなくて、感動したら、嬉しかったら、人と人とが思わず肩を叩いて喜び合う。そんな温度感のある交流が社会全体に戻るのはいつになるのだろうか。
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