『王の願い』

副題に『ハングルの始まり』とあって、文字好き(どこの国の文字も読めない、話せない、が、ともかくいろいろな民族の文字が好き)な私は、どうしてもこの映画を観たいと思った。ただ時機が合わなかった。秋の繁忙期の真っただ中だった。そんなわけで、SNSに流れるこの映画の予告編を時折見ては期待感を高めつつ、年が明けた。当然、正月休みにDVDを借りに走ったのである。

満足度100だった。よくぞこの映画を創ってくれたものだ、と監督のチョ・チョルヒョン氏に感謝。

国民の全て(身分も性別も関係なく)の民に知識を与えたい、それが結果的に国を富ませることなる、と願うのは、歴史にも名君として残る世宗大王。世宗は、漢字は表意文字であるため、これを朝鮮語の文字として使うのは無理がある、朝鮮語にふさわしい表音文字が必須、と考えていたのだ。だが当時(15世紀)の朝鮮王国では漢字の読み書き(知識の獲得や伝達方法)は支配階級の特権だったことから、家臣の協力は望めない。そればかりか、強く反対され続けてきた。それでも世宗は諦めきれず、密かに文字づくりを続けてきていたのだ。

映画は日本から来た僧侶たちが、世宗大王に謁見しているシーンで始まる。一瞬、日本人である私は「ん?」と思うが、違和感の理由に直ぐに納得。僧侶たちのセリフが日本語だからだ。韓国語のテロップが挿入されている。

僧侶たちは「仏教の経典の版木を譲ってほしい」「ここは儒教の国。版木は要らないはず」「もらえなければ帰国しない」と懇願している。王は通訳の言葉を受け、「既に写しを渡してあるではないか」と伝えるが、それでは、僧侶たちにとって来た意味がない。儒教徒である家臣たちの多くは、「渡してしまえばよいではないか」と進言するが、民の多くは仏教徒であるため、国王にとってそう簡単な話ではない。

一方、朝鮮の文字を創るために、身分は一介の僧だが非常に言語に秀でているらしい人物シンミが世宗に内密に召し出されていた。シンミとその弟子らの一行3人は、日本人の僧侶らが版木譲渡の応諾を求めてデモンストレーションしているところに出くわす。

圧巻のシーン。シンミは僧侶たちに「なぜ朝鮮の持ち物である版木にこだわるのか?」と問う。発したのは朝鮮語でも、日本語でもない。サンスクリット語だった。観ていて、なるほど!と思った。サンスクリット語は、仏教徒にとっての共通言語だったのだ。

シンミは日本の僧侶たちに「版木が必要なら、自分たちで創ればよい」と言う。日本からの使者として来た僧侶たちは「それでは10年も20年もかかってしまう」と、なんだか日本人としては情けない理由でシンミに泣きを入れるのだが、シンミはよどみないサンスクリット語で説得しきる。

シンミ曰く、チベットは版木を創るのに17年を費やした。本当に必要なら100年かかっても創るべし。あなたたちは我々と共に死ねばよい。「飯は乞うて食えても、真理は乞うても手に入らぬ」。シンミ(パク・ヘイル)、カッコいい!

物語は王の夢である「朝鮮民族が豊かな知識を手にするための文字」を創るために、長い苦闘へと進む。

全体に画面も暗く、派手な展開もあまりなく、大団円といえるシーンもないが、文字づくりというテーマにふさわしい重厚な作品だった。レンタルDVDだったけど、買っちゃおうかな、と迷ったりもしている。

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