100歳の葬送
義母が亡くなった。満100歳だった。近年認知症が進んだため住まい近くの養護施設で面倒をみてもらっていたが、ご他聞にもれずコロナウイルスに感染して、わずか数日で心肺停止。その訃報と共に、「遺骨にして返すので、1月ほど待てとのことだ」と義兄が弟(私の夫)に「通達」してきた。同時に義兄は「こんな時期(コロナ禍で葬送はしない傾向)だから、誰にも知らせずに納骨してしまおう」と言った(と、夫から聞いた)。
これに待ったを掛けたのが私の娘だった。「新型コロナウイルス対応も3年目に入って、行政もダメダメ一辺倒ではなくなってきたと聞く。遺体にお別れして骨上げしたいと、当事者が心を込めて当該部署の職員に相談すべき」という娘の言葉に、私ははっとさせられた。つばさの活動を通して、「患者さんとその家族の要望や想いは、医療や福祉に真っすぐに伝えること。可能な限り寄り添ってもらえるから」、「黙ったままでいて、わかってくれなかったとあとでぼやくのは、もったいない」と血液がんの当事者にアドバイスし続けて来たではないか。
さらに娘の想いは特別でもあった。(私(母親)がある期間、骨髄バンク運動で忙しかったために)「おばあちゃんにはたくさん面倒見てもらった。でも、だからお礼を、というだけでなくて、人として自然なお別れをしたい」。
至極まっとうな彼女の願いを夫から義兄に伝え、区役所や葬儀社の担当者に折衝した結果、義母の遺体は保管されている場所から斎場へ送られて、そこで納棺された姿にお別れできることになった。そうして、通夜も告別式もないが、家族(義兄、私たち一家)だけで棺を囲んでの葬送の儀が決まった。
それにしても、斎場はさぞや森閑としているだろうと思ったが、そうではなかった。たくさんの葬送への参加者でいっぱいだったのだ。それはそうだ。マスメディアではコロナ感染の死亡が話題の中心だが、老衰も病気も変わらない割合であり続けている。家族との惜別の形を日本人全員が忘れてしまったわけではない。この際だから誰にもどこにも告げずにお墓へ納めて締めにしたい、という義兄に安易に従わずに本当に良かった。
棺に納まった祖母に大粒の涙をはらはらと流す娘の横に立って、私も心から「ありがとうございました」と言う機会が持てた。100歳という自他ともに認める充分な年月を生きた功徳は、この余裕ある別れの儀式ができることにある。
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