らくがき
高い樹木の間を子どもたちが走り回って遊び、高齢の方々が木陰のベンチに座っておしゃべりをしている。戸山丘陵の団地の間に広がる公園を抜けて、買い物帰りに家路についていたときだった。足元の遊歩道の舗装に、チョークでらくがきがしてある。きれいな楷書で二言、死ね、殺す。美しい文字にそぐわない、近くで絶対に聞きたくない言葉だった。もし書いている人(ハイティーンの子どもかも)がそこにいたら、「せっかく素晴らしく字が上手なんだから、言葉も美しいのを書いたら?」と言いたいと一瞬は思った。しかし、おそらく書き手は独りまたは少数の仲間と、ただただ窒息しそうな心の内を吐き出すためにチョークを握りしめたのだろう。仮に私または同じように感じる大人がちょうど通りかかって、そんな説教がましい声をかけても何も変わらない。疎まれて終わりだ。
ネガティブな言葉が噴出するのは、誰かの鬱屈が極限になるまで事情が固まってしまったからだ。できることなら、苦しい、悲しい、寂しいなどを折々に言葉にできる人の環が、誰にとっても1つや2つはあってほしい。想いを整理するための最高の手段はおしゃべりで、おしゃべりには聴き手が必須なのだ。語り手と聴き手が交替し合い、何も解決しないがそれぞれの心が整理されて、「楽しかった!もうこんな時間?」と慌てて席を立つ。そんな時間が今こそ世界中の誰にとっても必要だと、しみじみ思う。
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