らくがき―2
家から駅に向かって歩いて、路地を出ようとするあたり。路面にチョークで「ルールは破っても、マナーは守れ」と大書してあった。
らくがきが意味することを考えるために、路地の人通りや周辺の雰囲気、わが家からの位置関係を俯瞰してみる。わが家は、地下鉄の駅から路地裏にぐるっと回り込んだところにある。家の玄関から駅へ入る階段口までを歩数で測ったら、300歩くらいだった。家の前の路地はあと1軒で行き止まりなので、人通りは少ない。ここの人口は、お向かい、突きあたりのお宅、我が家のお隣、そして私の家の人数分くらいだ。そんな静かな路地を、突き当りではない方向へ5軒分ほど歩いて大通りへと折れる。するとそこには別世界のように人や街の音が溢れている。
路地とはいえ、人が誰もいない時間は無いくらい人口密度は高い。若い人たちが住むアパート、学習塾、パーキング、寿司屋や居酒屋もある。大通りに出た左右にはマクドナルドとサブウエイ。周辺には配達員の人たちが自転車と一緒に数人でいつも佇んでいるし、塾に出入りする小中学生の子どもで路上がいっぱいになる時もある。めったに人が通らない静かな玄関前からわずか50メートルほどで、時には真っすぐ歩くのが困難なほど賑やかな通りに変わるのだ。その辺りにらくがきはあった。2行で、上手な字で書かれていた。
「賑やか」と表現すれば陽気な響きになるが、実際は人の数だけ緊張感がいや増すことになる。見知らぬ人達。何を目的に歩いているのか、一過性なのか通勤や通学なのか、いま良い気分なのか追い詰められているのか。全くわからないし、わからないからこそお互いに速やかに通り過ぎてしまえるのだとも思う。
らくがきが何を訴えているのか、ひとつだけ思いあたる。都会の路地は、喫煙者がとても多いのだ。ここも例外ではない、どころか、ここは特別多い。町内会の役員や居酒屋の経営者が、「禁煙」「ここで煙草を吸わないで」等と縦横に張り出している。しかし効果は、ほぼない。雨が降らない限り、2人、3人と立って煙を吐いている。たばこを吸う為だけに表通りから急いで入ってきて、火を点けるのだ。「禁煙」の文字を見て思い留まるはずはないのだ。
しかし「ルールをやぶっても…」というかなり哲学的な警句ではどうだろうか。もしかすると「禁煙」の見飽きた2文字よりも、ていねいな文章には少し心が動かされないだろうか。いや、喫煙者の行動を阻止できるかどうかよりも、示唆に富んだその2行をこの路地に書いた人がいることが、私にとって妙に感慨深いのかもしれない。雨で文字が流れてしまったあと、「また書いてもらえないな」と望んでいることに気づいて、独りで苦笑してしまった。
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