『リーダーは何をしていたか』

北の海で起きた痛ましい事故に胸が塞ぐ。小さなお孫さんの遺体に取りすがる祖父母にとっては、一緒に事故にあったその両親は子供にあたるはずで、その絶望感はいかばかりかと思う。

ひとは人生を送る日々、暮らしの安全や健康維持を多かれ少なかれプロの仕事に依拠しているのではないか。遊園地で遊具に乗ることから病院で手術を受けることまで、プロの仕事がその安全性を保障していると感じるからこそ、身を委ねることができる。タクシーやバスに乗ることだって、常時意識しているわけではないがドライバーと管理会社への信頼が背景にある。

今回の事故の犠牲者の方々は、住まいが日本各地だったと報道されている。そうなのだろう。知床という秘境だからこそ、場所も遠く、気候も大きく異なるところから旅行に行く意味がある。事故に会わなければ、ヒグマの様子は心のひだに刻まれて、日常の慌ただしさから生まれる心の疲れをふと癒してくれる、はずだった。

海難だけではない、このように進退が試されながらも結局起きてしまった事故を知るたびに、本多勝一氏の『リーダーは何をしていたか』(朝日文庫 1997年)が蘇って考えさせられる。本書は、高校の山岳部などで無謀な雪山登山などを引率して若い命を犠牲にしてしまった教師らの、あまりに無責任な思考回路を徹底して批判している。なぜ計画したか、現地で引き返す判断がなぜできなかったか。

プロの現場とまでは言い切れないにしても、多人数で仕事をしているのであれば、常に小さな取捨選択や時には進退の判断が「誰か」に対して求められる。その誰かが、リーダーなのだ。リーダーが率いる組織が大きくなればなるほど、いや数人の小集団であっても、判断が下れば納得する者らと反発や不満を抱く者らにわかれることも、人間の常、社会の理だ。そんなことは、怖れるに足りない。本当は行きたかったのに、乗りたかったのに、せっかく身に着けたスキルを活かしたかったのに。その憤懣を各々が持ち帰って、さてどうするかを時間の流れの中で考えて行く。そして次にまたどうするかをゆっくり考える。

知床の同じツアーに「8回行って、1回しか乗れなかった」と言った人がいた。その人は、あそこまで8回も行ける時間と経済的な余裕を自身で創り出せた、ということだ。そんな風に緩やかに、やり直したり考え直したりできること。それが社会の余裕というものだと、いつも思う。

A.Hashimoto's blog

母の心、ふんわりんりん…

0コメント

  • 1000 / 1000