育虫の夏

昨年、実山椒の苗を買った。娘に男の子が2人いて、ここ数年は男児らしく虫育てに夢中になっている。それに触発された。それで気づけば、わが家の世界一小さな花壇にも蝶々が飛んで来る。蝶々はカラスアゲハや小さなシジミチョウやらモンシロチョウなど、ひらひらかわいく舞って、しばし花の蜜を吸ってやがて路地を抜けてどこかへ。「武蔵野の面影かな。自然の生態系が息づいているのんだ」などと見ていた日々のある時、そう、直ぐに飛び去るのではなくて、ここも次の世代が増える場所になってほしいと思いついた。

 それで山椒の苗を注文したのだが、SNSで山椒を探すと、関連して「アゲハの餌」につながって行って笑ってしまった。山椒やら柑橘類の苗を育虫?で求める人が一定程度いるようだ。そういえば娘が青空マーケットで野菜を物色していたとき、パセリの枝にキアゲハの幼虫がいるのを発見して「それ、ください」と言ったら、売っているおばさんが「お宅、男の子がいるね」と言ったそうだ。当たり、である。

 そんなこんなの実山椒を縦長のテラコッタと無農薬の土と共に注文したのが、秋もやや深まった頃だった。冬から春へと山椒の木は順調に根付いたようすで、やがて葉が茂り、小さな花が咲いて実が付いた。自然の理というのは素晴らしいものだ。夏になるころ、「これは!アゲハの幼虫ではないか」と思われる見事な青虫が枝にじっとしている。透き通るような緑色で、気づけば近くの葉が葉脈だけになっている。私が育てた山椒の葉を食べてここまで大きくなったのか。そう思うとなんだか自然の一部に参加しているような気持ちで、本当に嬉しくなった。

 しかし数日後にちょっと焦ってしまうことが起きた。その仔がどこを探してもいないのだ。近所の子供がパパと一緒に虫取り網を持って歩き回っているのを見たことがあるが、「この路地裏で捕獲するのは、どこかの家の花壇にいる虫だよなあ」と思った。でも、その時は他人事だった。しかし今はウチの花壇にも「うちの仔がいる」。思い悩んでいる内に次の仔らが、見事に5,6匹。しかしその仔らももう直ぐ蛹になりそうなところで、外出して帰ったらゼロになっていた。うーん、これはいかがしたものか。もしかすると虫の捕獲者は子どもだけではなく、木の枝などでピーピー泣いている鳥たちも、かもしれない。などと悩んで、物置を探したら虫かごが出て来た。娘一家が去年の夏に滞在したときに買ったものだ。家に帰れば、カブトムシやカミキリムシやアゲハ用の虫かごがゴロゴロあるため、「置きかご」になっていたのだ。

 次に枝に幼虫が付いて、やや小さな毛虫が緑色がかって芋虫っぽくなってきたところで、枝ごとそっと切ってかごに移した。かごの中でももりもり葉っぱが消費されるにしたがって、黒いウンチがいっぱい床面にころがっていき、ある時その仔が動かなくなった。下に水っぽい黒い塊が落ちていた。あれ⁉死んじゃったのかな、と焦る。しかしあとでわかるのだが、幼虫が蛹になるときに、体内の余分な水分を一気に捨てるのだとか。娘にラインで写真を送ると、「多分、経験的に言えるのは、いまその中で羽化の準備が進んでいる。ただその小さな虫かごだと、羽化して出て来たときにプラスチックの壁に激突するから、その時は気を付けて」ということだった。

それから10日後くらいの、朝だった。形がおかしい。なにやら頭のあたりが尖っている。それをラインすると、娘と虫博士くんたちから「羽根が透き通って見えている!」「もう時間の問題だからね」とご指導があった。ど、どうしよう。産気づいているということか。

しかし私はその日は月に一度だけ通っている写経がある。仕事以外のことはほとんどしない私が、大切にしている習慣なのだ。行って帰るまで正味3時間。ここまでたいせつにしてきたのだから、きっと待っててくれるだろうと根拠のない期待とともに、蛹の付いた枝をかごから出して、コップにさして机の上に置いていくことにした。

そして、写経が終わって急ぎ足で最寄り駅の地下鉄に走り込んだ時、家人からメールが着信した。「アゲハ蝶は、いま無事に窓から飛び立ちました」。

 「ええー?窓開けて外に出しちゃったの?」「だって、直ぐに水でも飲めないと死んじゃうかもしれないでしょう?」

 家に帰ると文字通りの抜け殻が枝に残っていた。順調に育ったんだなあ、と創り物には無い完璧なフォルムに、気を使って慎重に面倒をみた日々が蘇ってきた。可愛かった。懸命に生きようとする姿の尊さ。実山椒の枝を見ながら、良い時間をいただいたことに感謝しなければな、と思った。

A.Hashimoto's blog

母の心、ふんわりんりん…

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