真夜中の説得
最近のことだが、あるカルチャー教室の運営者が「就寝中、ずっと誰かと話しているんですよ…」と、やや辛そうに言った。経営者ともなると、いろいろな責務(同業者協会のネットワーク維持、教室のカリキュラム構成、水準がばらばらの各生徒をどう指導するか、そして事務・会計・税務処理など)が満載なのだろう。そこで、ついつい、仕事をしていてもご飯を食べていても、常に頭の片隅に「誰それにこれを伝えなければ」「この間の説明は拙かった。あれを言い直して、なんとか理解してもらわねば」と、相手を換えて話している、と推察できた。それで私は即座に、わかりますぅ、と思いきり低く強く頷いて共感を返した。
そんな共感の交換をして間もなくのある夜、ボランティア活動仲間の1人から久々に電話があって、40分くらい語り合った。とりとめ無いお喋りだった。彼女が今からやろうと考えていること、それについての「熱い想い」が話の中心だったが、私からは体調やご家族の近況などを尋ねて、答えてもらった。翌日、メールで「とても気持ちが整理できた」と送ってくれた。
そうなのだ。語り合い分かち合いとはそういうことだ、といつも思う。仕事やコミュニティーの関係者とも、話し合うことの大切さはそこにある。少しの余談、脱線、微苦笑も交えて、話はどうやらまとまって…、存分に声帯の筋肉運動が済むと、皆の顔色が良くなっている。それが人の暮らしに案外たいせつな「声呼吸」というものだ。ときには要件の伝達だけで手短に済む場合もあるが、それは充分に意思疎通が諮れているからだ。
会話の「会」は、人と人が頭を突き合わせている下に「言う」「云う」とある。イーブンにしゃべり合うことだ。お互いに語ることで、それぞれ自分の頭の中を整理する。結局、説得とは自身の納得、なのだと、それこそ「納得」である。夜中の誰かへの説明は、必要あってやっているのだ、と思えてきたら気が軽くなった。
0コメント