丸ごと受けとめる

骨髄バンク設立運動の渦中にあった頃、セミナーの終了時だったか、ふと「あの子を白血病にしちゃったのは私だから…」と私が呟いた時だった。聞いていたのは数人のボランティア参加者だったと思う。その中の1人が私の言葉を聞いて瞬時に「ない、ない!そんな事ないから」と叫ぶように言って顔の前で何度も手の平を振ってみせた。即座のその反応に私は戸惑い、それ以上は何も言えなかった。

当時の私は、骨髄バンク設立運動グループの中心的存在だった。私が「わが長男を救うためには骨髄バンクという国主導のシステムが必須」だと訴えたところからそのグループ結成され、グループは日本中に知られる存在になっていた。運動は次々にマスメディアに取り上げられて、それが政治や行政に認知される。マイクを向けられれば、私はどうしても骨髄バンクの社会的意義などを話す機会が増えて、いつの間にか小児がんの子を持つ母親としてよりも、骨髄バンクの必要性を説く社会活動家の側面を持つようになっていたようだ。それがその日はなぜか母の想いを口にしたかった。骨髄バンク運動も順調な広がりをみせ、メディアの関心も高く、セミナーや署名活動や厚労省訪問などで手応えを重ねていた。それだけに、その日は少し疲れが溜まっていたのかもしれない。それはそうだろう。私は通院が欠かせない白血病の子の母で、数年前までは手話活動などをそれなりに楽しむ普通の生活者だったのだ。

骨髄バンクが稼働したのが1991年12月。ほぼ2か月後の1992年2月に息子は亡くなった。それから私は情報提供活動へとシフトするのだが、それと並行して「私のために」子を喪った母たちに呼び掛けて、東京、名古屋、大阪で語り合い・分かち合いの集いを20年以上開催し続けたのだった。ただ、わかる、わかる、と頷き合うだけのこの集いに私の心はどれだけ救われただろう。多くの子を喪ったお母さん(時にお父さんも)に「集いに本当に助けられた」「あれが無かったら子を追っていたかも」と感謝されたが、いえいえ、私こそ…。

同時に続けて来た血液がん・小児血液腫瘍の情報提供活動では、医師や創薬の最前線の情報を聴き続け、それを情報紙へと文字化し続けてきた。今も続いていて、これからも続けようとしているこの情報提供活動こそ、いつの間にか私を当事者ではなく当該領域の支援者の位置へと立たせてくれたようだ。

集いでの母達との語り合い・分かち合いや、医療や創薬の地道な働き手の仕事を見続けて、わかった。あの日私が思わず嘆いた言葉に対して「そんなことない、ない!」と言われて辛かったのは、そんなことはない、という根拠の無い言葉もさることながら、私の不安や悲しみそのものを否定されたからだ。苦しんでいる時に他者から言われたくない説教の筆頭が「時が解決する」だが、確かに時間薬は私にも効果的だったようだ。感情は否定できない。ただ丸ごと受けとめる、それが傍らに居合わせた者の役割なのだ、と自戒を込めて思う。

A.Hashimoto's blog

母の心、ふんわりんりん…

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