母達の語り合い・分かち合い
我が子のために骨髄バンクが必要とわかって走りに走った約6年間。その間は小児がんの子の母という当事者だったわけだが、息子の逝去からは「子を喪失した母」という厳しい立場の当事者となった。
骨髄バンク設立運動の過程で、血液がんの理解の難しさが本人や家族をいかに苦しめるかを実感していたため、「血液がんと治療法」の理解促進活動に徐々に乗り出す。一方、息子を救えなかった虚無感はいかんともしがたく、このままでは生ききれないと不安になった。私にはもう一人、息子と同じ存在の重みを持った娘がいるのだ。彼女と普通の母として向き合えるように、「喪失の悲哀」が持つ膨大なエネルギーをなんとか放出しなくてはならなかった。それで血液がんの情報活動の他にもう一つ、同じ立場の母達と語り合う集まりを新聞の催し欄などを使って呼び掛ける。1993年のことだった。その反響は思いがけないほどだった。ジャーナリストが参加してその感想を書いて、それがまた多くの当事者(母達)の目に止まり、問い合わせと参加増へとつながった。当時はどのようなテーマであっても、当事者から同じ立場の人に向けて「語り合い・分かち合って、支え合いましょう」という呼びかけはほとんど無かった。がん告知がまだ一般的ではなかった時代である。集いは、母限定です、とは言わなかったので父親もそれなりの割合で参加して、東京・名古屋・大阪で月例となり、15年続けることになった。
会場はロの字型に設営する。つまり全員で向かい合う。全て私が司会をして、開始時に同じ前置きをする。「何を話しても良いし、泣くだけでも良い」「話している人に質問はしない(つまり黙って聞く。終わってからも何も評価しない)」「メモを取らない」。参加者は「普通に」懸命に、穏やかに、真摯に、つまり市井に生きていた母達だから、人前で話すことに慣れていない。そのせいかおずおずと入室して、居心地悪そうに座って直ぐに、「私は話すのが下手で」と小さい声で訴えて来る母が必ず一人二人いる。それには私から、「いいんです、お話できなければ。順番が来たら、お子さんのことを少しだけ聴かせてくだされば」と補佐するのだが、本当にまったく無言だった人はいない。むしろ話が下手で、という人ほど暮らしの中で発散できていないせいか、途中で「少し区切って、また後で時間があったら聴かせて」と言うほどのこともけっこうあった。
当事者としての語り合い・分かち合いの効果は、私自身に大きな福音となった。理解が届く者同士の間で胸に渦巻く想いを言葉にする。つまり心情吐露である。毎回それで「さあこれで明日からは普通」では全くないが、「私には’私達’と言える仲間がいる」という安堵感だろうか。病気や事故で人生の予定が大きく損なわれた多くの当事者の方々にも、心行くまで語り合える場があるようにと願わずにいられない。
いまや集いは私の心のふるさととなった。今年の年賀状にも「仲間たちと相変わらず月例で集まってますよ。たまには来てほしいです」と嬉しい添え書きがあった。今年こそはあの街に行って、なんてことないお喋りをして笑い合いたいと思う。
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