映画『せかいのおきく』

この映画が毎日映画コンクールで日本映画大賞をとったから観にいった、のではなく、公開されて直ぐに観た。でもその先見の明を自慢したいのではなく(いや、ちょっと自慢したい気もするが)、ともかく観終わっての感想は「良い映画だった」と「観て、納得」だった。

ストーリーは厳しい現実(いつの世も)を生きる若者たちの、友情や恋や助け合いを散りばめながら、農薬も化石燃料もなかった完全還元型の江戸期の暮らしを描き出す。先ずはある厠の前で、雨を避けた男性二人と女性一人が出会う。女性は落ちぶれた武家の娘のおきく、男の1人が紙屑集めの忠次、もう1人の男が下肥買いの矢亮。やがておきくが声を失う事件が起こるが…。

完全還元型は手がかかる。しかしそれがあったからこそ江戸末期頃までの人の社会が成り立っていた。下肥買いは、下町の長屋であろうと武家屋敷であろうと桶を担いで下肥(糞尿)買いに行き、それを農家の畑に撒いて収入とするのだ。人々は彼らを蔑視しつつも、彼らに商売してもらわないとたちまち生活が行き詰まってしまう。その「買取り業者が来ないために、長屋の暮らしが行き詰まってしまったシーン」があるのだが、この辺でなぜこの映画がモノクロなのか納得する。畑に矢亮が買ってきた「たいせつな」商品である糞尿をていねいに撒きつけるシーンでも、モノクロにした監督、あっぱれ、と思う。

ところで声を失ったおきくだが、武家の娘で読み書きができたため、寺子屋で手習いの師匠になる。つまりその「文字が書けたこと」が、おきくを絶望から再起させる力にもなる。一方でおきくを支えるのは寺の住職、長屋の人々、そして忠次への恋心。この下町に生きた人々の暮らしもまた、次の世の下肥となってくれている、と胸がほっこり。そんなこんなで私としては捻りも何もなく素直な感想を、ひと言「この作品に出会えて本当に良かった」。

A.Hashimoto's blog

母の心、ふんわりんりん…

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