オルガンの調べ(二)
シュバイツアーは、医学博士、哲学博士、神学博士であり、オルガン・パイプオルガン奏者、博学者としても著名だった。医療活動の功績でノーベル平和賞を授与され、やがては核反対論者としても歴史に名を残している。
誰もが知っていることだが、主に受けた教育を中心に列記してみる。ピアノを始めたのは7歳のころ、10代半ばからはパイプオルガンを習い、それがのちにシュバイツアーをバッハ研究へと導く。大学では神学博士と哲学博士を取得する。この過程のどの時点かはわからないが、「30歳までは学問と芸術を身に付けることに専念する」と決めたのだそうだ。そして信仰の人らしく30歳からは世のために尽くす(キリストが布教を始めたのが30歳だったから)」と決めて医学部へと進む。38歳の時に医学博士の学位を取得し、密林(赤道直下ガボン)に診療所を開くに至ったのが41歳だった…。
本人が求めるままに教育を受けられるだけの資金があった(裕福な家庭に生まれた)から思うように歩むことができた、と言えばそれまでだが、同じような経済水準の子弟であっても3つの学問で博士号を取得して、「直截的なひとへの貢献は医学」と認識してそれを学んでその道に踏み出す、などというケースはあまり多くないはず。
ひとつ凡人の私が思うのは、おそらく今風に言えば、シュバイツアーは「ギフテッド(天才)」だったのではないか。学び・理解し・言語化(論文化)することに限りない能力を与えられた人。そして電話やコンピューター等が社会活動のツールとして存在せず、手巻き時計が刻む時間で日常が営まれていたため、自身の時間割の作成が自由だった、つまり総勢の傾向に振り回されず進み、時には出直しや学び直しをすることをためらわなかった。そして牧師の家庭で育ったことから持てる者は持たざる者のために生きるべしという利他概念を当然としていた。
しかし能力が高くて環境に恵まれたからといって、それでご本人が悩みも無く幸せで万事がみなうまくいったわけではないこと、それもまたシュバイツアー博士を巡る史実に記録されている。何をするにもひとりではできず、万事に手がかかり、お金がかかり、一山超えれば次の山が見えてくる。それが人間社会は理であるし、そう社会が単純であっても困るのかもしれない。だから私も、天才でも環境にも特別恵まれていなくても、精いっぱいに与えられた時間と能力と出会いを活かせば、属する社会にメリットを少し残し、そしてそれは大河の一滴となって世界を潤すのではないか。博士が残した案外わかりやすい言葉を知って、心が和みつつそう思った。
「人のために生きる時、人生はより困難になる。しかし、(人のために生きると)より豊かで幸せにもなれる」。
「人生の惨めさから抜け出す慰めは2つある。音楽と猫だ」。
0コメント