丸めない

この年齢まで生きて来て、「わかった」とはっきり言えることはただ1つだけ、「時は必ず過ぎる」こと。でもそれは私においての事実として「過ぎた」ことを数えられるからで、一方で、いま悩んだり苦しんだり悲しんだりしている人に、「その苦しみもいつか楽になるから」と言いたいわけではない。そんなことは、その人の今の苦しみを楽にさせない。ここまで人生を送って来てわかったことは、「そんな説法、意味ない」ことだ。

 しかし、自分の生い立ちに深く関与した家族や親族の一部の大人たちの、なんと丸めたがりの多かったことか。生長にともなう悩みや苦しみに対して、「悩むな」「理不尽は飲み込め」「不安はないことにしろ」という説法を、どれだけ「それらしく」表現できるかを競うかのような大人たちばかりだった。

 では今苦しんでいる人に、家族や友人や知人、関与することになったボランティアなどができる有効な対応法は「その苦しみを、共に見つめること」、つまり共感するだけだ。もちろん、それ以上に苦しみや悩みに関与できる人はいる。医療や福祉や創薬、そして教育や心理学。つまりその道の専門家なのだが、専門的関与には即効性がない。そして、専門的関与は「ある一面にしか関係できない」。だから「専門」なのだが、人が苦しんだり悲しんだり悩んだりするとき、それはもう「なんだか」重苦しく、そこはかとなく」悲しく、「尽きることなく」悩むのである。事実上の痛みを専門家に癒してもらいつつも、暮らしの変化や社会との乖離について行ききれない、いま懊悩している「私の心」。それが辛いのだ。

 その悲しみ、苦しみ、悩みを吐露している人に対して、「いつか楽になるから」なんて丸め方は、しない。じっとその語る言葉を受け止めるだけだ。語る人が、「あの人が悪い」と言ったら?まちがっても「でもあの人だって、悪い人じゃない」なんて諫めてはいけない。「そう感じたんだねえ」で終わり。聴き放し、ができないなら、自分に共感力がないことを認めるしかない。同時に間違っても「私はこうして乗り越えた」と実例にあげてはいけない。そんな昔のことではなく、2020年のいまこの時に悩み苦しみ悲しんでいる。「聴く」には力が要るが、その時間だって瞬く間に過ぎてしまう。そのひとが、私を聴き手として選んでくれて語り始めた。この時間をたいせつに、たいせつに…。

A.Hashimoto's blog

母の心、ふんわりんりん…

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