Blood
人と人が会ってはならないなんて、何という事態だろうか。人を人たらしめているのは、いかに接する他者との関りを良いものするか、という試行錯誤の賜物のはずだ。他者の尊厳を守りつつ自身の希望をたいせつにする。その社会性を身に着けるための試練は、親の懐から出てお砂場に参加したあたりから始まる。
いま人類は、「人に接してはならない」というアラームが激しく鳴る中、つい5か月前まで存在していた人間社会の仕組みをそのまま運営している。現実はまるで全てのドアにカギがかかり、収めてある書類も必需品も衣類も出し入れ不能になったようだ。誰もが戸惑い、必死でカギを探している。ただ、IT技術が発達していたことで、SNSがあった。それで人と人は、「接しないが」連絡は取れる。しかしそれは、「とても幸い」なことだろうか。便利なOnlineでの会議を終了した後で感じる疲労感は、何だろう?社会は以前のように‘人間社会’としての温度を保っているか…。今は仕方ないとしても、しかるべき時期が来たら、行き過ぎた連絡ツール至上主義にブレーキをかけて、温度感のあるところまで引き返してほしい。‘個’が‘弧’にならないように。
そんな、個人では解決できそうにない不安感をもてあましながら、歩く。私も含めてすれ違う人達は、おそらく去年の今日のこの時間にここを歩いたり走ったりしてなかったはずだ。家で出勤の準備だったか、家族で朝食中だったかもしれない。
「昨日の東京の新規感染者は何人だったかな」と思いながら、明治通りの交差点で立ち止まった。反対側に渡ってから折り返して、戻りの行程へ、と思った。その時、新宿方面から救急車と思われるサイレンが近づいて来た。当然、道をゆずるために車も人も粛然と動きを止める。救急車だと思ったが、サイレンを鳴らしながら通り過ぎたのは、輸血用血液を運搬する車だった。ボディいっぱいに「Blood」とある。視界が涙でぼやけた。いま輸血用の血液を切望している人達がいる。そこに、誰かが提供してくれた血液を持って急行している人達がいる。青になった信号を渡りながら、本当にお疲れ様です、とマスクの中で呟いていた。
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