兄達との別れ

3年前から2年前にかけての9か月の間に、長兄と次兄を相次いで喪った。長兄は胃がん、次兄は下咽頭がんだった。

5月下旬のその日、次兄から「入院中だが元気なので心配しないでくれ」という妙なショートメールが届いた。直ぐに次兄の妻の方に電話をすると、「実は、そう。でも治療は絶対受けないと言ってて…」という。兄は定年になるまで小学校教師として過ごしてきた人だが、あたりの柔らかさに比べて異様に頑固な性格であることを、妻も家族も親族も皆よく知っている。医師の「一先ずがんの摘出を」という提案に「声を喪ってまで生きたくない」と言い切っているのだとか。まず可能な限り摘出、その後に抗がん剤治療で追い打ちをかける。それで案外その後の人生も長いかもしれない。しかし次兄はそれをほぼ拒否。あのひとらしいな、と思いつつも、次兄の妻に「下咽頭がんについての情報がほしいか」と訊ねると、「ぜひ欲しい。そしてとりあえず来てくれないか?」という気持ちに応えて、入院中の病院へと向かった。それが、あの9か月間の始まりだった。

その次兄の面会に行ってからわずか3か目に、長兄の長男(私にとって最初の甥。いまは大学生の娘がいる地方公務員)から電話があった。親父が胃がんで入院中。4月に体調を崩してひと月半で、もうあまり状態が良くない。先ずはと思って叔父さんに電話したら、義叔母さんから「申し訳ないが、早稲田の叔母さん(私)に連絡をしてほしい。叔父さんの入院のことは誰にも言わないで」と言われたのだという。そして「できれば一刻も早く面会に来てほしい。あまり先が長いとは思えない」。健康だとばかり思っていた長兄と次兄が、病名と状態は違うものの、軽くないがんに罹患していたのだ。甥から電話を受けた時、私は名古屋にいたのだが、「明日、可能な限り早い新幹線に乗って、ともかく病院へ直行するね」と約束し、その通りに朝早い新幹線に飛び乗った。兄の家は東京多摩市にある永山ニュータウンの一角にある。新幹線は新横浜で降りた方が早いか、と車内で考えていると、甥から電話だった。「叔母さん、おやじはいま逝きました」。「だから、病院ではなく家の方に来てください」。そうか、会えなかったか。やるせない思いでデッキから富士山の裾野を眺めつつ、今未だ何も知らない新宿区に住む弟に電話をし、兄の逝去を知らせて、できれば今すぐに家を出て永山駅前で会いましょうと告げる。そして駅前の喫茶店で次兄の罹患と「あなたも含めて知らせないでほしいということだったので、兄さん(長兄)も弟の罹患は知らずに逝った。(長兄の)義姉さんも知らない」と説明してから、二人で兄の家へと向かった。子供らと本当によく訪ねた兄の家の前に立った。この家は、故郷が栃木県で少し遠いこともあり、次兄も私も弟も次々と結婚と子育てで賑やかに暮らしていた15年くらいの間、実家のように思って集合していたものだった。ここ10年程はお互いの人生の充実期を迎えて少しご無沙汰となって、でもそれなりに盆暮の挨拶くらいは交わしつつ、それぞれに忙しく暮らしていたのだな、などと思っているところに、黒塗りの車が静かに近づいて来た。義姉が降りて来て、私を一目見て泣き出した。その肩を左右から、巨体の長男と次男が優しくしっかりと支えていた。この滂沱の涙を流している妻と、たくましく母に寄り添う息子たちが兄の人生そのものではないだろうか。

次兄は、がんの勢いだけは止めた方がよい、という医師の勧めには応じて、それが奏効して小康を得ていたがさすがに長兄の葬儀には来れなかった。どんな想いだったろうか。義姉が 私の従妹らと一緒に上京してきて参列し、「わりと元気にしてるわよ」と言う。「先生が、今回の治療で2年くらい持つ人もいますよ、って」と、最初のころよりも表情が明るくなっていた。そう、その時々の一番良い情報なりに気分を保てばよいのかもしれない。

それから9か月間の入退院の後、栃木県の渡良瀬河畔に建つセレモニー会館で、前年の6月1日と同じメンバーも多い、次兄の葬儀があった。次兄の長男が上海で暮らすロックンローラー(ドラマー)のため、葬儀は自ずと音楽葬となった。CDから流れる兄が好きだった音楽に、祭壇の前に置かれたドラムで、甥が軽やかにリズムを刻む。さすがのプロの演奏家なので、どんな曲にもドラムやシンバルの音が乗っていくのだ。悲しみの中に、音楽はよく沁みとおるものだと思った。~長かろうと、短かろうと、我が人生に悔いはない。~粋な別れをしよう、よ。祭壇の笑顔の前で読まれた弔辞は、次兄の人生そのものだった。「新学期の担任発表のとき、生徒たちには‘担任を告げられても、歓声やブーイングは控えるように’といくら念を押しておいても、先生のときにはだめでした。お名前を読みあげたとたんに、わーいと、大喜びされて」。家族の声にはめったに耳を傾けない頑固さのまま、教師という仕事に生ききって、この若さで逝ってしまった。でもそれは、兄がある意味すべてを自分の内に引き受け切ったのだ、ということなのかもしれない。そう思うと、あっぱれ、と言うしかない。

長兄とは7歳、次兄とは4歳、弟とは3歳ちがい。ともかく賑やかな家だった。「お風呂~」という母の声を合図に、兄たちが先を争って湯船に飛び込んだとたんに、木の湯船の底が抜けてしまったことがあった。底の位置の分だけ頭の位置が低くなったまま、はだかの兄たちは笑い続け、私と弟は居間から風呂場を見て笑い転げて、台所で棒立ちになった母の頭から湯気が立ち上っていた。

生きている間は小さなもめ事を繰り返すのが家族という組織員なのだろう。より自分らしく生きようと思えば、それなりに主張がある。しかし、こうもあっさりと逝かれてしまうと、もうそれなりに懐かしむしかない。なにより、争って奪い合うような財産もないかわりに、幸いなことにきょうだいで押し付け合うような負債も残さなかった両親は、まあまあ、よい人生を送ったと言える。そして兄達はそれぞれに、妻たちのその後の暮らしが立ち行くようにしておいたようだ。2人の義姉が夫の死を心から悲しんでいる姿をみると、喪失感の底が少し温かい。

A.Hashimoto's blog

母の心、ふんわりんりん…

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