誕生日のセンチメンタルジャーニー
6月27日は私の誕生日だった。
昨年からの予定では、この日は市民公開講座開催のために仙台にいる予定だったが、初春から世界を席巻している新型コロナウイルス感染症のために来年に延期。世界と国内の人の動きが激変を続ける中で、入れ替わるようにいくつかの小さなイベントやOnline会議などが提案されてきたが、いずれも私がいなくても特に困ることもなさそうだと判断できたので、欠席の連絡を送ることにした。そうしてこの日、どこからともなくいただいた1日を使って、特別な過ごし方をしてみよう、と思った。
生まれ育った栃木県の山あいにある故郷の村を、実家に帰る、誰かの法事に参列する等の目的なく、ゆっくりとただ訪ねてみることにしたのだ。長兄と次兄が9か月という短い期間に世をさった。故郷の両親がついに二人共いなくなっても、それからおよそ10年、実家の建物も庭も周辺の畑も維持され、集落との付き合いは続いている、と感じていたものだったが、それは兄たちが足繁く通っていたからなのだ。
母が亡くなった時、私は「もうきっぱり家も畑も処分した方がよい」と兄たちとその妻たち、弟の前で言い切った。私は既に違う姓になって、こちらの姓の存続の方に関与しなければならない。土地にほぼ財産価値の無い地方の山間部で、人が住まない家がどういう問題を生み出しているか、少し情報に敏感なら衆知のことだ。兄達の横にいる義姉たちが、私の言葉に首がちぎれるほどに頷いていた。あの家にノスタルジーを感じない彼女たちにしてみれば、維持することには負担ばかりでお得感はないのだ。近隣との付き合い(町会費、ガスや水道などの費用、なにより母からどちらかの兄に所有者を変える必要がある)。しかし兄たちは「大丈夫だ」と言ったきり私の言葉に一顧だにせずに機嫌よく話題を変えてビールを飲み続けていた。思い出があるし、たまに行って畑でネギやホウレンソウを育てたい、というわけだ。その通りに、それから10年近く兄たちは定期的に通い、実家は集落の一員として維持されたのだった。それが唐突の2人の死で、実家のあの家は持ち主不在となった。当然のことだが処分しないわけにはいかず、1年半ほどの間に撤去の道筋をたどったのだった。
生まれて、18歳まで育った家。撤去が嬉しいはずがない。無くなってさっぱりしたと思うはずがない。6人家族でワイワイ暮らしていたのに、いま私の肉親は弟だけだ。寂しくないわけがない。しかし、‘時’はあの家の存在を「もう、無しにするように」と告げたのだ。逆らうことはできない。
それでも私の心に広がる故郷の空、里山、メダカを追いかけた小川、そして学校の広い校庭が消えてなくなるわけではない。私の中に、100年以上も建ち続けていたはずの家の、屋根裏の太い梁の安定感や土の壁の匂いは、今もたしかにある。もしや生まれたところでそのまま暮らす人にとっても、成長とともにあった佇まいの空気感は、現在の街の息遣いとはちがうのではないか。思い出とは、そんな風に不思議な存在感なのではないか。
その心象風景を、子連れで帰省していた頃のように行きも滞在中も戻りも気忙しいのではない時間の中で、見つめ返したいと思ったのだった。
ゆったり車を進め、子どもの頃に境内で遊んだ村でいちばん古いお寺を詣でて、「心を休めに帰ってきました」と報告をした。小中が共有できるほどの広い校庭が広がる学校の門に立つと、もちろん校舎はきれいに変わっていたが、その向こうに見える校歌にも登場する山が、学校と村全体を懐に抱えるようにどっしりと見下ろしている光景は、変わらなかった。しかし校舎は小学校しかなく、それもおそらく1クラスしかないと思われるサイズだった。家と家の間が広くなり、夏草が昔あったはずの家の分を埋めていた。それでも旧友の家が今もあるのをみると本当に嬉しかったが、庭の築山の柘植や五葉松の幹が古木となって、遊びに訪れたのが本当に昔となったことを告げていた。そう、ここではここの時間が流れている。学校や道路や河川を守り、生活のシステム維持をしているのは、今もここで暮らす人達なのだ。私もまた私の置かれている場で、それなりの社会活動に参加している。
清い水の流れや、当時とは広さが違うものの耕作されている畑地に目をやりながら、またいつか心を休めに来ます、と呟いていた。ただ、実家が無くなっているはずの跡地は、ついに見にいくことができなかった。
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