同窓会

つけっぱなしのラジオから、「同窓会に出られるのは、ある程度出世した人」と聞こえてきて、思わずキーボードを打ち続けていた手が止まった。聴き手のアナウンサーも、「同窓会を仕切っているヤツが、昔は勉強できなかったのに、事業で成功していたりして(笑)」と返す。聴いていて、頭の芯がきつく締め付けられる気分だった。

そのセリフ、昔からよく言われてきた気もする。まだ若い頃にも、「せめて同窓会に堂々と出られる人生でありたいよね」と言った友人もいたような。地方のそれなりの街の、地域では進学校とされる(つまり偏差値はそれなりに高い)高校の生徒同士の会話だった。私はその時、珍しく無言だった。いつもは、誰のどんな話にも活発に返事を返す、いわゆるノリのいいタイプの高校生だったのに。

生まれて育ったのは、その高校からバスで30分ほど山あいに入っていくところにあった。大人になってから、そのような「通り抜けて隣町や県に抜けられない」ところを「限界集落」というのだ、と知る。それでも私が学童期にあったころは人口もそれなりに多くて、どの家にも子どもが3人、4人いて賑やかだった。ただ、それだけに全員が高校へも大学へも進まない、いわゆる中卒でどこかへ就職していく友人が、クラスの半数くらいいたように思う。その就職していく友人たちは、3月の卒業式が近づく頃になると、新品の洋服を着て通学して来た。それがうらやましくもあり、またちょっと心のどこかで親からの就職祝いを感じてもいた。つまりもう、彼ら彼女らは、子育ての出費を親に出させなくなるのだろう。それに比べて私たちは、これからまだまだ学費がかかる子らなのだ。しかしそんな記憶もいつの間にか消えて、どこの高校に受かったの、落ちたの、の騒ぎの後、直ぐに私も含めて高校生たちは学園生活に馴染んでいくのだ。ただ、高校は家からの通学だから、当然のように村の暮らしは続いている。間もなく母や近所の人から、「〇ちゃんが就職で出て行ったあと、ある日突然、あの家の人がみないなくなった」という噂が聞こえて来たことがある。一家離散というらしい。〇ちゃんの、おとなしい顔とおかっぱ頭を思い出す。成績は良くなかったけど、家庭科の時間のアイロンかけの上手さに心から感心したものだった。手際の良さに驚いた時の、珍しく紅潮した〇ちゃんのほっぺを思い出していた。高校2年の時にあった最初の中学校の同窓会に、もちろん〇ちゃんの姿はなかった。

同窓会に出てこれない人は、人生が成功ではなかった、か?

私の知っている、若くして得てしまった病を厳しい治療に耐えに耐えて乗り切った人達。彼らは、その後も明るくたくましく生きている。でも心身に追った傷の深さ大きさは、どんなに苦労して事業を乗り切った人とも比べようがないのではないか。体力も、身体の機能の一部も、治療費と言う出費で経済的にも、失ったものが多い。人によっては職も、恋人も。なにより、青春の時間を大きく消失したと感じている人もいる。この心の痛さを笑顔に包み切って、同窓生に囲まれて同じ立ち位置で昔話に興じられるだろうか。その「臆する時もある」心を、誰もがわかるべきとはいわない。でも少なくとも私は理解していることを、共感の波動に乗せて送りたい。

A.Hashimoto's blog

母の心、ふんわりんりん…

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