映画『新聞記者』

 以前から気にしていた映画「新聞記者」が、自粛要請が一部解除となった6月1日から上映!高田馬場駅から3分ほどの映画館・早稲田松竹の看板に掲示されていた。これはもう、私に、「自粛生活+似合わないリモートワーク、お疲れさま。そろそろ映画などいかが?」と言ってくれているのだ、と勝手に感謝して、飛び込んだ。

 大きなスクリーンとシンとした薄暗い空間。そして、映画館には申し訳ないが、一人置きにしか座れないゆったり具体が心地よい。映画館にいる、という至福の想いに、先ず浸る。

 力のあるストーリーだった。原作者・望月衣塑子さんが、森友学園、加計学園を巡る一連の問題の取材チームで活躍した人だけあって、ドキュメンタリー映画かと錯覚するほどだった。

 国の行政機関という巨大な組織の中で進められる「不正」。結果的にそれは不正だが、おそらくだが、関与する人物は「不正を行う」罪悪感は無いのだろう。自分の立場でなら図れる便宜を提供している、という程度ではないか。この不正は、やがて「忖度」という、平成時代としては耳慣れない言葉で述懐されるようになるのは衆知の通り。ともかく、巨大組織の中で上へ上へと昇り詰めていく人物が見ているのは、決して下(これから育てるべき人達)や外(国全体とその明日)ではない、と思わせる。主人公の新聞記者の熱意に触れ、若い官僚もこの不正に気づいていき、やがてこの上官管理の不正を暴けるか、という場面へと話は進んでいくのだが…。

 時代は、こうしていても巨大な流れとして進んで行く。その流れの中で、私が行うことは良い未来を創っているだろうか、と逡巡したい。そのためにはこれまでの歴史で行われた「まちがい」を知る必要がある。その「まちがい」の筆頭が戦争だった。そして今、地球温暖化を促進してしまったことが「まちがい」と、大勢で気づきつつある。人は皆、一個でしかないから、その一個一個が常にたいせつな感性「自分のためではなく、自分の組織のためではなく、後の評価に耐えられる行為」で日々を送る。ではその感性は?やはりそれは、人としてのやさしさではないか、と思う。あるラジオ・パーソナリティーの女性が「残念ながら日本の組織は、人の痛みに鈍感な人が上へあがれるようにできている」と言ったのを聴いて膝を打った。人の痛みに鈍感。その対極にある心の動きが、やさしさなのかもしれない。

A.Hashimoto's blog

母の心、ふんわりんりん…

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