脳が好むこと
もうだいぶ前のこと。フォーラムの準備中、「それなりの年齢の女性」ボランティアさんが、小児科の先生の横で、椅子から立ちながら「よいしょ」と声を出した。そのまま黙っていれば、お互いの記憶から消え去る発声だったかもしれないが、そこから先が「それなりの年齢の女性らしい」しぐさと発言で、笑いを誘うことになる。彼女、口に手をあてて「あらやだ、私ってば年ねえ、よいしょ、だって」と恥ずかしがって見せたのだ。さらに、その笑い、というよりも「よいしょ」を印象づけたのは、横におられた先生の一言だった。「いや、良いのですよ。そうやって声を出すことで、足や腰に‘動くぞ‘と注意をさせているんです」。なるほど!と皆で納得させていただいた。若い(幼い)ころは、反射神経が鋭敏だから注意を促さなくたって問題ない。しかし年齢がある程度進むと、脳の指令に身体が反応するまでに時間がかかるようになるのだろう。そこでまず、脳は声を出させて身体に注意を促すという方法をとる、ということか。脳が司令塔、という当然のこと。それを常人はときどき忘れてしまうから、疲れの取り方も上手にいかないことが多い。
家族という最小単位の人の組織内でも、仕事を初めとする社会生活でも、脳の指令に逆らわねばならないことばかりだ。自分のめんどうもみたくないほど「人生面倒くさい気分」でも、家族の分まで食事を作る。朝からなんだか憂鬱でも、仕事には行く。忘れたいことが頭にこびりついていても、会議でなんとか元気に発言する。6歳から教育を受けて、そうできるようになった。しかし、なかなかしんどいことで、脳は不満だらけになっている、気がする。それをストレスというのかな。
嬉しい、悲しい、楽しい。みな脳が感じることだ。その脳が感じることこそが、心なのだろうか。それが身体に伝わって、涙が流れたり、笑い声がもれたり、満面の笑顔になったりする。そうだとしたら、ほんのたまに、脳の感じるままに身をまかせてみよう。嬉しい、に通じる友人に手紙を書こうか。悲しい、を理解してくれるあの人に電話をしようか。楽しい、と言い合える仲間とお茶しようか。そう、ひとの脳はわかりあえるひとと声を掛け合うことが大好きなんだと、私は思う。
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