映画「聖なる泉の少女」
昨年の夏、ジョージア(グルジア)製の映画を観た。山懐に抱かれたような村に、‘泉の水の力’で人々の病や怪我や心を癒す儀礼をおこなう家族がいる。しかし父は老い、儀礼の力が衰えたことを感じて、子らの一人に後を継がせようとするが、上の息子三人はこれを拒んで既に他所で生きている。残るは末っ子でただ一人の女の子のナーメしかいないが、ナーメはその宿命を受けいれることを悩む。それは当然のことだ。いくらこの地、この自然、この信仰しか知らなくても、先祖代々これで人々を癒してきて、それがこの家の暮らし方だと言われても、ある年齢になれば別の生き方や道をさがさないはずがない。それが親でなくても、師の教えでも、このままで良いのかと逡巡するのは、成長の証なのだ。その見本のように、上の兄はキリスト教の一派の神父に、次の兄はイスラム教の聖職者に、三番目の兄は無神論者の研究者にと好きに別の道を歩いている。一方、ナーメ自身はそう感じていないが、父は自分以上の霊力がナーメにあることに気づいているのだった。
映画のストーリーの中でも、水の力だとか霊力だとかを否定する登場者もいて、「信じる者は救われるさ」というようなセリフも交わされる。しかし観ていて、それはそれ(自然信仰そのもの)で良いのではないか、どうかこの人々の暮らしをそっとしておいて、と思う。映画はこれという音楽もないまま、美しい森、清らかな川、木々を揺らす風をナレーションにして流れていく。あるところで、兄の一人が「水の力と祈りで治った、なんて、そんな気になっただけだ」と言うところがある。その時ナーメが、「それじゃ、いけないの?」と訊き返す。兄は兄で言いたいこと、説得したいことがあり、ナーメだって「非科学的だなんて、わかっている。私だって、別の道を探って悩んでいるのよ」という苦しみの中にいる。お互いにそっぽを向いて、いま言うべきことと違うことを言い合っているのだ。
やがてナーメは、上流の水力発電所の建設工事によって起こされた泉の水の変化に気づいて…、という展開なのだが、始まりが森から湧き出してこちらに向かってくる清流であるように、エンディングもまた湖という自然に溶け込んでいく。
本来、人は(生き物全て)、自然の恩恵なしに生きられないのに。何がここまで、暮らしと森を遠く話してしまったのだろうか。
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